あなたは、あなた自身を感じるでしょうか。わたしは、自分自身を感じることが、できません。ただ、風が吹き、鳥が鳴いています。この不思議な世界は、まるで飛び出す絵本のようです。
それは、また、眼が見ようと意図して見てるのではありません。耳が聞こうと意図して聞いてるのではありません。この明るい世界は素通しです。そこで見えない暗い身体の中に注意を向けると、呼吸、あるいは、すこしの腹痛が、知覚されます。
それで、ふと、思います。そのような世界や身体など。そのような知覚されることを、知覚することによって、この知覚されない自分は、知覚されない自分として、現れずに了解されるのではないでしょうか。もし世界が、とどまることがなく変化するのでないなら、そのようなこともないでしょう。
その、知覚にとってですが、自分は、ない、です。自覚されません。ない、のですから、たとえば、なんであれ、どうやっても、その、ない、を守ることなどできません・・・と、言う前に、ない、は失うことも、できないでのす。ない、は 創ることも、壊すことも不可能です。それが、ない、です。
それは、見るにしても、聞くにしても。苦しむにしても、楽しむにしても、怒るにしても、なにかを思考するにしても、それらは常にとどまることがなく機能しています。そのことが、その、ない、を現してるのではないでしょうか。
そして、おなじように、見るにしても、聞くにしても。苦しむにしても、楽しむにしても、怒るにしても、なにかを思考するにしても、つまり、この知覚できる、世界の裏側も、ない、です。
たぶん、続きます。
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No.2439 - 2010/03/12(Fri) 09:25:45
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