> どうせ人(無明)の言うことですからね。 >「私は、ひねくれている」と言うには、言いたい >事情があるんだろうな〜と思いますよ。 >この場合、本当にひねくれているか、いないかは関係なくて。 >ひねくれているかどうか分からない人だって >その程度の発言はします。。。たぶん。 >「ひねくれている」と言うことで、何か、得るものがある。 >あるいは、何か得たいのでしょう。
たしかに、それもあり、です。すこし話を戻して。たとえば、ひねくれてない、に同一化、依存してるために、ひねくれてる、を認識できない。ということもあります。孤独ではない、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。
おなじように、ひねくれてるにも、孤独にも、同一化、依存してる、ということもあり得ると思います・・・そこで一貫性、持続力が育てられてる、ということでもあるんですが・・・そんな孤独、ひねくれてる、が自分の状態として社会に対する主張にもなり得ます。それに賛同したり反対したり無視もできるでしょう。ほかの、どんな、もの、ことだって、そうなり得るでしょう。
これはもう真っ暗闇に、眼が眩む、です。それで、とりあえず生活に展開されてる、展開されるだろう、なにかにしがみつき、いつのまにか、あれが欲しい、これが欲しくない、とかの欲望な生活に埋没して生きてく、と決心してしまうこともありそうです。それだって、この自分を意識するために。守る、を学ぶために。無意味ではないです。それを拒否してしまっても問題、という面もあります。
どいうわけかubik0101は、そんなことに染まらない、関わらないでいる努力をしたために・・・たとえば大人は、社会は敵だ、とかいうことで自分の立場を持ちたくなかった・・・大変でした。 そして、社会は、そのように見えるだけなのに、そのように見てる個人の集合。ということもあるかもしれません。
たぶん当人は、そこから学ぶことが多すぎて、どう始めるか、始めることさえ困難かも知れません。静かな時に気がつこうとか、観察とか・・・対症療法はあるけど。根本治療に繋がるのは、しかも一気に解決するのは・・・いろんな言い方があるとしても「自分自身を知れ」だと、思います。
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No.2488 - 2010/04/04(Sun) 14:05:51
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