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記事No.2493に関するスレッドです

思考実験パート4 / ubik0101
なにか知覚できること、あるいは知覚できないことと、自己との関係を探っています。たとえば、みんな一緒だ、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。幸福、に同一化、依存してるために、不幸、を認識できない。ということもあります。

また、孤独、 に同一化、依存してるために、みんな一緒だ、を認識できない。ということもあります。不幸、に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。それは狭い領域を守って、そこに人が潜んでるということでもあります。

そして、また、孤独、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。そして、幸福、 に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。このようなことは、どのようであれ、その状態と、その認識の関係です。

続きます。

No.2490 - 2010/04/06(Tue) 10:43:27

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
しかし・・・ どのようであれ、自己、はそのようではありません。つまりは、自己は、自己を認識できませんが、だからといって、認識できないこと、が自己、ではありません。そのような、それ自身がそれ自身を知覚できない、という関係そのことが自己でもありません。

また。これ、は、なぜ、これ、なのか?と世界についても、問うことができます。しかし、言葉では問えるのですが、自己、は問うことが意味を失います。

というのも、これ、たとえば風にしても鳥にしても花にしても・・・その感覚にしても、感情にしても、意識にしても、それに人が依存しなくなったので、これ、は不可知なことを顕わにする。それが、これ、が、これ、でなくてもいいのに、これ。という疑問です。が、自己は、 まったく、これ、としても自覚できません。自己は、知覚、意識の範疇にありません。

じゃ、その、ない、を知覚するのは誰?という疑問が生じるかも知れません。そういう誰かがある、とします。しかしそれでは、そういう誰かは、どのようにして、なにかを知覚することができるのか?という疑問が生じるでしょう。つまり、自己は、まったく無自覚でなければならない、のです。まったく透明でなくてはならないのです。

もしかして続きます。

この部屋の近くの丘の上の山椒の若葉です。

No.2491 - 2010/04/06(Tue) 10:57:26

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば、私は神だ。と言う人に会いました。それで「どうして神の概念がないのに、私は神だ。なんて言うのです?」と、聞いてみました。すると「・・・・」でした。

そして、しばらくして、ubik0101に「神の概念がないんですか?」と質問しました。もちろん「ないです」と答えました。

そうです。神を自分の外に見て、それに生かされてる。この世界は現象界。神は実在界。ああだ、こうだ。とか言ったりしてる間は、神と自分の分離、距離があります。そんな状態を嫌って「私は神だ」はあり得ます。でも、実際に、分離、距離が消えたら、「私は神だ」も、消えるんです。

もちろん。無我。自己。も、そうです。そいうのも、まったく事態として、そうでありきって、消えてしまいます。そして、消えるということは自覚されるのですが、まるで透明な世界に、透明な絵の具で描いた絵。これは美しさを感じます。

もしかして続きます。

No.2492 - 2010/04/07(Wed) 09:48:17

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
ならば世界は、どのように見えるでしょう。これは誰でも、確認できると思います。簡単です。たとえば、カーテンを開けて、窓の外を見ます。そして・・・なんだか言葉は頭に流れ続けてるように感じてるかも知れませんが、その思考を・・・止めます。これはその思考を凝視する、あるいは呼吸に注意を向ける。思考に止まれと命じる。で、止まります。

あるいは、また。ただ見えてる風景を、ただ見る。ただ聞く。だけ、でもいいです。たとえば。この部屋からは、春の小雨に桜が咲いて、小鳥たちが、その蜜を吸って、枝から枝に飛んでいます。それ、が、これ、です。眼や耳の感覚器官と、その対象。意識と、その対象。それ、だけ、です。

たとえば対象としての、樹、鳥、花、そして、それを見てる、なにか。主体。この、総てが、これ、が、これ、である必要も理由も根拠も、なにもないのではないでしょうか。総ては不思議。まったく未知です。

たとえば自我さえ、葛藤さえ、無我さえ、それ、が、そう、だという必要など、まったくないのです。でも、そう、なんです。 ほかに、なんの秘密もありません。この日常が、神秘、不思議です。ありとあらゆる意味が満ちてるゆえに、無意味。透明です。

もしかして?続きます。

No.2493 - 2010/04/07(Wed) 14:43:19

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
つまりは、まったく現れたままです。うろ覚えですが・・・問。「どこに道はありますか?」答。「それは眼の前にあります」です。それが透明な世界です。その明るさは人の胸まで及び・・・なんの秘密もなく、神秘もなく・・・それが明るい秘密であり、神秘です。けど、だからと言って、それを眼や耳や意識が知覚できる領域に限定する必要はありません。

もし、そこに限定するなら、たとえば自我とは、怒りや恐怖であり、葛藤であり、軋轢であり、苦痛、という、現象、になります。つまりは、そういう現象が起こらなければ自我はない、問題はない、などとなり、そこから思考が演繹され、それに日常が費やされたりします。それは執着で、狭い領域に人が隠れ住んでる、ということです。それでは知覚できない自我の正体、ない、を見逃します。

また自己を、自覚しようとすることが自我となり得ます。つまり、その領域を限定するのではなく・・・知覚できる領域と、その領域にないこと・・・それは世界が自然に行ってるのですが・・・それを明確にしなければなりません。

そのことによって、それらは十全に機能するのです。でなければ混乱です。そのことを人は、たとえ、自己、を見た、見られた、としても、本性が愚かな意識に教えねばなりません。

続きます。

No.2494 - 2010/04/08(Thu) 13:21:04

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば「ひとつ」を提唱する人に会って。「ひとつ。て、不増不減、の投影的な解釈ではありませんか?」と聞いてみました。答。「・・・」でした。不増不減とは、ありとあらゆること、ありとありえないこと、つまり森羅万象の総活動で、それは増えたり減ったりしない、ということです。そのことだけで言えば 「ひとつ」という表現は誤りではありません。しかし、自己、はその領域にはありません。

また、たしかに、樹、鳥、花、思考なども・・・それを知覚する、感情、意識にしても総てが未知です。つまり世界は、未知。もちろん自己は、未知。知ることができない繋がり、その集合とも言えます。それでも自己は「ひとつ」の領域にはありません。

もし、おなじ世界の領域にあるのなら、自己は探せば、なにか特定、個別なこと、として見つかるかもしれません。しかし、そんなことはない、です。もし、見つかるなら、それは自分が自分を知覚するという、変、なことになります。

続きます。

No.2495 - 2010/04/11(Sun) 00:27:18

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
その、変、な状態は、たしかにあり得るとは言えます。それは、自己、を感じることもない無我なら、私は電車だったり、ほかの人だったり、私は世界、だったりするでしょう。 それは、無我、の過剰、強調に思えます。そんなことは不要です。

たとえば、私は春、にしても、私は神、にしても、私は犬、にしても、自分が自分を知覚する、というのは自我の機能です。そんな自我の機能も、世界の機能です。それは、自己、ではない、です。

また。世界の総活動が、世界の総活動を認識できるのは確かです。そして、そこでしか、自己は、知ることは出来ないです。けど、その領域に自己はない、です。

たぶん続きます。

原種系のチューリップです。

No.2496 - 2010/04/11(Sun) 00:29:36