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記事No.2591に関するスレッドです

世界の機能パート2 / ubik0101
その体験は起こることです。そう呼ぶならばですが、日常の意識状態から、超意識状態に、ほとんど瞬間に、変化します。どういうわけかubik0101の場合は、その始まりと、変化しつつある状態と、その完成が、自覚されました。そこでは、これまで否定してきたこと、いや、世界が総活動しています。

くり返しますが、そこで最初に見たのが、自我の仕組みでした。まず、自分があって、人は、なにか見たり聞いたり思考するのではありません。なにか見たり聞いたり思考することによって・・・予め・・・つまり時間を遡って過去に、その自分という仮の中心、自我、がつくられるのです。それは虚構です。

たったこれだけのことです。それは、この自分がなければ、どうして見たり聞いたり、思考したりできるだろう。という、あまりに明白で疑いようがない暗黙の理論を背景にしているので、もし誰かに、なにかを見たり聞いたりしてる、その自分は何?と聞かれたとしても、自問しても・・・そのことによって、その自分がつくられてるという・・・思いもよらないほど単純な仕組みかもしれません。それを見たのが、そこで与えられるとも、はじめからそうだった、だけではない、自己、です。

続きます。

No.2570 - 2010/07/29(Thu) 08:09:44

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
そうでなくて日常、なにかを主張したり判断したりする自分。それは、その自分がしてるのではありません。それを世界がしてくれてるのに、自分がしてると勘違いしてるだけです。とも理解できます。 そのようにして主体を誤魔化して、過剰に主張したり判断して、自分で自分を自覚できると勘違いできるだけ、とも言えるでしょう。

そういう仮の中心、自我は、世界に、つくってもらってるのです 。 どんなことだって、たとえば歩くとか泣くとか威張るとか羨ましいとか手紙を書くとか、そうできるように世界ができてなければ、自我は、できないのです。この意味でも、自我は、世界から独立した、自分、ではないです。経緯はさまざまとしても、もしかして「総ては、ひとつ」は、その範疇を出ないかもしれません。

そして。自我なら、たとえば、歌っても怒っても働いても思考しても、そのことで世界に自分をつくってもらっているのですが。そこで、自己は、おなじこと・・・たとえば、歌っても怒っても働いても思考しても・・・ほかのことをしても、世界に、自分、をつくってもらう必要がなくなります。自分で自分を自覚する必要がありません。 世界から削除されることも付け加えられることも、なにもありません。

続きます。

No.2571 - 2010/07/29(Thu) 08:26:55

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
その体験で、自我が虚構、ない、ということが開示されます。しかし、それは、ある、と疑ってもなかった・・・ほかの言い方では、ない、と疑ってもなかった・・・自我が、ない、というだけです。

しかし、自我が、ない、ということを、無我が、ある、と。思考に依存することによって自分を自覚したい愚かな意識が見なす可能性があります。それは一応は立場が明確なので、自我を批判したり、説明したりできるでしょう。自我、を対象にして、無我、を張ったりすることもあるでしょう。そうすることで、無我、を当然の前提として確固なことにしようとすることかもしれません。それは、無我に、同一化してるとも言えます。

たとえば、 これだけを見ては意図とは異なるでしょうが・・・これだけしか読んでませんが・・・ 至道無難(しどうぶなん)。ただ揀択(けんじゃく)を嫌(きらいます)。ただ憎愛(ぞうあい)莫(なければ)洞然(とうねん)として明白(めいはく)です。という 禅の三祖の「信心銘」の冒頭の言葉があります。

これを・・・道に至るのは難しくありません(なんでもないことが道に至ることです)。ただ、選り好みは、障害になります。ただ、好き嫌いがなければ、まったく透明な覚りの日常です・・・と、まあ訳してみます。

No.2572 - 2010/07/30(Fri) 09:19:11

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
しかし、 選り好みさえ、世界の機能であり、とくに問題にする必要はありません。選り好みの、あるない、を選り好みする必要はありません。執着しないに執着する必要はありません。自我さえ、世界の機能です。無我さえ世界の機能です。自我とは無我です。と、気がついてしまいます。

すると、ここで、ただ選り好みは障害です。と、いうより、たとえば 、ただ選り好みは障害です。と、思考をする・・・自我と無我が対立する無我としての立場・・・を失ってしまいます。無我からの非同一化が起こります。ここだけに限ったことではありませんが、思考が消滅します。ここで意識に依存するなら、なにか思考を見つけようとして、意味あることが見つからず、混乱してしまう可能性があります。

しかし、ただ選り好みが障害になります。という思考、その、あるない、と。まったく自我を解決して、透明な日常にある、こととは無関係です。なにかを思考しないでも、そう、なんです。なにかを思考する、思考しないで、その人の有り様が左右されるなら、変、なんです。

そのようにして、人は、思考しないでも、思考しても、無我を自覚する必要がなくなります。これは、意識が機能しながら自己が、意識に依存するものでは、ないからです。それはたとえば怒りとか悲しみとか、感情についても同様です。

続きます。

No.2573 - 2010/07/30(Fri) 09:42:20

Re: 世界の機能パート2 / さらだ
徹底的に、“ありのまま”。
この二元世界を、一元世界を生きる認識?感覚?において生きる、のようなことでしょうか。

No.2581 - 2010/08/06(Fri) 12:59:52

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
うーん。たとえば、思考と、その人の有り様は無関係、ということは。その概念もない、ただ“ありのまま”に生きること。と、言えないことはないです。

そんな思考をしたことがないだけかもしれませんが・・・とくに、ここを「二元世界」とは感じません。なので「一元世界」を生きる感覚、とかでも、ないです。

この透明な世界に生きながら、人は、この世界に依存しない・・・そんな機能が世界に働いてる・・・そんなことを表現したいというのが、この一連の投稿の狙いです。

No.2582 - 2010/08/06(Fri) 15:01:12

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
これを振り返ると・・・無我・・・それは自我は虚構、というだけのことなんですが、それも・・・なにか行動、発言、思考するにあたっての隠れた暗黙の前提になり得ます。それは、たとえば自我を対象にして、あれこれ思考して、その背景に前提とされる無我を守ってるなら、無我に囚われてて、迷いといえば迷いです。

これを同一化と呼びましたが、このように完全には同一化してないことを・・・たとえば無我という概念に同一化してることを・・・普通には、同一化と呼んでいるようです。それは完全に無我に同一化して、そこから見える思考を失うことを理解してないからかもしれません。そのように無我を体験しても、意識に依存するなら、できるはずもないのに、無我という概念に同一化したい、という可能性があるということです。

そうでなく。無我を、なにか、あれやこれやを行動、発言、思考することで、その背後にある暗黙の前提として、自覚しようとする、主張する、擁護する、必要がなくなると 無我も無自覚になります。ほかの言い方では、無我という、あるいは自我という、空想・・・概念・・・に依存する必要はありません。無我もなければ、自我もない、です。

そのためには、それぞれ人には経緯があるでしょうが・・・また決まった道筋はあるわけではないのですが・・・たとえば。無我の概念に同一化してる、つまり不完全な同一化、ということは、自我とか無我とかが何であるかを、知ってる。ということを隠れた、暗黙の、前提にしています。

しかし実際には、自我も無我も・・・その機能は働くとしても・・・それが何かを知らないのではないでしょうか。それが何か知らないのに、知ってるとして、その、自我とか無我とかの立場が成立しているのではないでしょうか。

たとえば、誰かが憎い、愛しい、羨ましい、として。その憎い、その愛しい、その羨ましいということ、それを実感するとして、それが、なんであるか、知ってる、でしょうか。知らないのに、知ってると、隠れた、暗黙の、前提にしてるから、それで軋轢や葛藤。また、その否定、肯定、に依存させられる・・・それを実は、知らない、という理解までは、それに留まることになる・・・のではないでしょうか。

続きます。

No.2583 - 2010/08/07(Sat) 07:56:51

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
まったく自我が自我である必要もないのに自我なのかもしれません。どんなことも、それが、それである必要もないのに、それなのではないでしょうか。また、自我が、ある。とか、ないとか。その、ある、ない、の意味さえ知らないのではないでしょうか。知らないのを知ってるとして成立してる、と見て、なお、その立場は成立しません。

これも、くり返しますが、知ってることが何かを知らず、知らないと言うことも何かを知りません。ならば、この日常が神秘です。ここに世界に隠れた、もの、こと、がありません。楽しいなら、ただ楽しい、悲しいなら、ただ悲しい。なにか思考するなら、ただ思考する。知覚が機能してるだけです。そこに不思議を見ます。

このように、そこに留まざるを得なくなってる理由を理解すると、実際に、たとえば意識に依存しない・・・自我と対立する必要のない立場に行き、ほかの風景を見ます。そして、それは、自己、という概念に同一化・・・それを隠れた、暗黙の、前提にしてることを見出すかもしれません。

この過程は、否定の道に似ていますが、とくに努力は不要です。それは、世界に乗ればいいだけです。料理したり、洗濯したり、歩いたり・・・青空や鳥や雲や空気を感じたりする・・・それだけで世界が教えてくれます。それだけの機能が透明な世界に働いています。世界は、あらゆる意味を孕んでいるゆえに無意味、透明です。

続きます。

hatoさんと今朝、川辺の散歩で見つけた、ヘクソカズラ(屁糞蔓)です。

No.2584 - 2010/08/07(Sat) 07:59:58

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
また、 それぞれの経緯は違うとしても、事態と認識、の理解が必要かもしれません。たとえば、幸せなら、幸せと思考しないとか、無我ならば、無我と思考しないとか、思われることもあるかもしれませんが・・・無我を無我と思考しても問題ないです。というより、はっきり無我なら思考として言葉として無我、でなくてはなりません。

まあ説明ですが、幸せなら、幸せの概念は、不要です。幸せなんです。無我なら、無我の概念は不要です。無我なんです。で、幸せなら、事態として、幸せです。それを幸せと思考、言葉として言います。無我なら、事態として、無我です。それを無我、と思考、言葉として言います。そう、だという事態を、そう、だと認識するだけです。これが、AはA、です。

ここには・・・青空と積乱雲が、蝉の鳴き声が、川を渡ってくる夏の風の匂いが・・・真実が、虚偽が・・・世界の総てが、そこに働いています。ここは世界が真善美を望んでるように感じます。

ならば、知覚とは、差の認識、です。 ほかの言い方では、自己は、自己を、自覚できない、です。 これも結局、そう、ならば、そう、と認識しても、認識しなくても、そう、です。 つまり、意識が機能しながら、意識に依存し得ません。

続きます。

ときどき晴れ間を見つけて干してる、梅干です。もう3人から、つまみ食いされて・・・とても柔らかく、いい塩梅と・・・好評です。

No.2590 - 2010/08/11(Wed) 06:55:18

Re: 世界の機能パート2 / hato

こちら瓶詰めにしたものです。

塩気が落ち着くまで半年ほど熟成させるようですが、この一粒が美味しい!紀州梅を凌ぐかしらん・・・と苦労婆うちでもっぱらの噂です。

この量で半年、もつでしょうか。。

No.2591 - 2010/08/14(Sat) 12:41:43

Re: 世界の機能パート2 / suho
>
> こちら瓶詰めにしたものです。
>
> 塩気が落ち着くまで半年ほど熟成させるようですが、この一粒が美味しい!紀州梅を凌ぐかしらん・・・と苦労婆うちでもっぱらの噂です。


お久しぶりです。
ubiさん元気回復したようで何よりです。

その梅干、とってもうまそう。。
じっと見ていたら、
口の中によだれが充満。。
暑い時には最高かもです。

No.2592 - 2010/08/15(Sun) 02:57:32

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101&hato

suhoさん、お久しぶりです。

我が家のパブロフは、まだよだれ充満させていませんが、

そういえば少し前の夜、ubik0101さんが寝ながら何度も何度も何度も、唾をのみこんでいたので、予後がわるいのか、もしくは新手の病?と思って、おそるおそる「どしたの?」と聞いたら、「えーっ、なにが?」と目をぱちくり。見たままの状態を説明すると、「いま、梅干しのこと考えてたっ」ということで大笑いしました。
「美味しい梅干し作戦」を練っていたと、思われます。

hato

んー。梅は黄色く熟したのを選んで採って、それを家の中で追熟。とても甘い香りがするようになったら、広口ビンに塩で漬け込む。これで、2日ほどで、梅酢があがりました。

そのあと、また熟した梅を見つけて、入れたのですが・・・そうなると梅の梅酢漬け?かもしれませんが・・・とくに問題ない、でした。重石もなかったので、塩水をビニール袋に入れて使いました。梅酢が上がると、圧力が掛からず、いいかもしれません。毎日、ビンを揺すってみました。

ubik0101

これから、海に行ってきます。

No.2593 - 2010/08/15(Sun) 15:15:19

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
その事態と、その認識は無関係です。なので認識は・・・思考、言葉は・・・事態を正確に表現できます。AはA。それは、そう、表現しても、しなくても、そう、なのです。それを、世界の総活動が、可能にしています。

ならば、たとえば、思考、言葉が、学んだ自我、学んだ無我、を失っても、なくなるものは、なにもない、です。それは無自覚のまま機能しています。なので、というわけではないかもしれませんが・・・もともと、かもしれませんが・・・執着の必要がありません。

もしAはAでないなら、意識に依存してる、かもしれません。そうならば、それは、ほかのことで、ほかのことを説明する、ということに現れるかもしれません。そんな事例として、クリシュナムルティ関係の掲示板で見かけた「思考=時間」という表現があります。その書も読んでないので意図は分かりませんが・・・これも、その表現だけを見て・・・ ほかのことで、ほかのことを説明する事例として見てみます。

そこでは、不安や恐怖を呼ぶとされる、葛藤、軋轢、そんな意識の運動のことを命名して、思考、と呼んでるのでしょう。そして、葛藤、軋轢において、ああすればよかった、こうすればいいだろう、と空想の過去や未来に迷ってる、そのことを命名して、時間、と呼んでるのでしょう。つまり両者は、自我の機能で、おなじことです。

それを前者に「思考」と、後者に「時間」と命名して「=」で繋いでるだけです。それが何であるかはともかく、思考にしてみれば、葛藤や軋轢は、思考、と命名される正当性はないと思われます。時間にしてみれば、ああすればよかった、こうすればいいだろう、という空想は、時間、と命名される正当性はないと思われます。 それぞれ、その事態とは違う命名をしてるのではないでしょうか。なら、AはAではありません。また、自我の機能は、それだけではないです。

それに、不安や恐怖、葛藤や軋轢、ああすればよかった、こうすればいいだろう、は自我の機能としても働き得るというだけです。それで辻褄合わせに、たとえば心理的思考と、技術的思考を。心理的時間と、実際の時間を、区別したりする必要もあるのでしょう。

もちろん、そういう理解の経緯もあるのでしょうが、それなら、ほかのことで、ほかのことを説明して納得してる、変調、ということを、理解しなければなりません。それは、また、思考は、事態を正確に表現できますが・・・思考は、思考を、厳密には表現できません。不確実性が機能するようです。ということもあります。

続きます。

No.2594 - 2010/08/16(Mon) 11:07:26

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
それは、ともかく「思考=時間」という思考を成立させるためには、そういう自我の機能ではない、見る、聞く、思考するという・・・知覚の機能・・・を前提にしているのではないでしょうか。

それは自我が解決されたら、たとえば自分という概念なしに、知覚は機能します。葛藤や軋轢、ああすればよかった、こうすればいいだろうという空想に結びつきません。そうでない自我な有り様を「思考=時間」と、表現したのではないでしょうか。

それは、自我と、自我でないを区別してる、いわゆる分離ですが、それを度外視するとしても・・・知覚は、そういう時間の概念には囚われませんが、時間がない、とは言えません。また、自分という概念なしに、ということは、自分なし、ということでもありません。 なにかを自覚できないことを、ない、と言ったりすることはあるようですが。それは疑問です。

それは、知覚されたことは、ある、と。知覚されないことを、ない、と意識は見なすだけということかもしれません。真摯で正確、つまり素直なら・・・そのような知覚されることは、ある・・・あることは知覚される・・・ない、ことは知覚されない・・・知覚されないことは、ない・・・という知覚の大雑把な特質に依存する必要はありません。自我は虚構。とは、 ない、ことの認識です。

たとえば「思考=時間」は、あくまで、とある経緯の、ほかのことを、ほかのことで説明してる、表現、です。それは、とくになんでもないところに、理由と目的をつくってなされる思考です。事実として真に受けてはならない、です。ですが・・・どなたかクリシュナムルティに詳しい人が、本人の意図を指摘してくれれば、とは思います。

続きます。

No.2595 - 2010/08/16(Mon) 11:38:09

Re: 世界の機能パート2 / peer
>「思考=時間」は、あくまで、とある経緯の、ほかのことを、ほかのことで説明してる、表現、です。それは、とくになんでもないところに、理由と目的をつくってなされる思考です。

Kの専門家ではありませんが。
同じことを言っている。と思います。
例えば経験する。ということも時間に関係があります。
知っていることを、あらためて経験するだけで、
知らないことを経験は、しません。
知らないことは認知の外のこと、でしょうから。
例えば経験という言葉は「経過する」という意味です。
何かを経過して、それを終わらせる。
それを記憶したり保持したり持ち運ぶことではない。
それ自身の投影を体験する。。。ということになります。

No.2596 - 2010/08/19(Thu) 13:53:26

Re: 世界の機能パート2 / ubik0101
なにかと、ほかのなにかが、同じとか、違うとかいう思いで見ると、それはすでに、自分で自分の状態を理解するために投影されたこと、かもしれません。それは、そういう経験と呼ぶことができると思います。そして、たしかに、知らない、は経験とは、呼ぼうとは思いません。たとえば、認知が、なぜ認知なのかも・・・知ってることも、なぜそうなのか・・・知らないのですから、総てが、掴まえようがない、です。

ところで、たとえば。その事態と認識に差があるということは、ここではなく、どこかとか、いまではなく、いつかとか彷徨い騒ぐ・・・十全に生きてなければシュミレーション(空想)が必要なのが・・・自我の特質かも知れません。それが解決されると、事態も、思考も、「記憶したり保持したり持ち運ぶことなく」ただ過ぎて(不正確な言い方)いきます。

けど、ふつう事態も、思考も、ただ現れては去る(不正確な言い方)ので、とくに自我が解決されてる、されてない、の判別にはならないようです。また、思考の始まりは、その思考自体にあるのではなく、揺れがある・・・もしかして、総ては変化する・・・面白いです。

まあ、時間があるとかないとか言いながら、実は、世界の成り立ちというか、その仕組みを探るのだ。それは実は、これは何?という質問で、世界に生きながら世界に依存してない。ということだと、とても面白いな、と思います。

No.2597 - 2010/08/19(Thu) 23:06:36