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記事No.2672に関するスレッドです
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維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
いま現状のままがいいと思うとき、
実は、この思いは、継続的な思考の連鎖を当てにして、その手段で時間をうずめることで、維持を図ろうとしている?
うまく維持されるような、その思考、その時間は、そもそも、あるのかな、ないのかな?
No.2639 - 2010/09/12(Sun) 06:19:19
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
「いま現状のままでいいと思っている」・・・のでないとき・・・その「いま現状のままでいいと思っている」思考は・・・あるのかな、ないのかな?
No.2640 - 2010/09/12(Sun) 08:02:11
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
そのときは、何かで忙しくて他の事をしている感じのときとかあるし、
疲れるなど、一時的には、そのひとつの思考が休んでいることもある。
あるいは、表現として、そのひとつの思考はないとき、つまりその思考がある…のではないとき、表現としては、別の思考がある、さまざまなものがあるということで、しかし、満足を、時間を維持しようとしているような。
No.2641 - 2010/09/12(Sun) 08:23:49
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
そ、いうことなら日常的に・・・なにかの思考をしてるわけです。その、なにかの思考をしてないとき、その、なにかの思考は、あるのかな、ないのかな?という質問です。
No.2643 - 2010/09/12(Sun) 09:43:34
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか?
別のとき、場面では、満足、時間の維持を図ろうなどとして思っていれば。
No.2645 - 2010/09/12(Sun) 16:01:52
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
たとえば、「あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか? 」と、思考してないとき に、「あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか? 」という思考は、 あるのかな、ないのかな?という質問です。
もっと簡単に言えば。怒ってないとき、その怒りは、あるのかな、ないのかな?という質問です。
こういうことは、自分の奥深く、深く、深く・・・一人で真摯に探求すべきことです。
No.2647 - 2010/09/12(Sun) 20:04:33
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
…と、思考してないとき に、
…という思考は、あるのか、ないのかな?
という質問ですか。
ないと言っているのに、ある、ないを聞くので、そのままの質問としては、質問の意味を理解できませんでした。
答えてみましょう。
その思考が組み立てられ実働しているときに、その思考は、現象的にあります。
そして、それを画面に記入して、相手に返事をゆだねたら、一時的に、表面的には忘れます。表面的には、ない。
しかし、その質問をしたことは覚えていますので、なにかのきっかけで、思い出すとき、出てきます。
記憶にはその思考はあったと言えます。
思い出すとき、表面にもあります。
画面と合わせて、以前のものと合っていると言えます。
あるいは、実は、たいていのことは、すっかり忘れます。表面にも記憶にもその思考はない。
ただし、似た場面で、似た発想の、似た疑問の思考を構成することができます。
怒っていないとき、怒りはあるか、ないか?
怒るときには、思考だけではなくて、行動もありますが、思考だけを取り上げましょう。
怒っていないという、判断がありますね。
それが怪しいですが、事実に基づいて、できるとしましょう。
つまり、とりあえず、いまは、何かに関して、ある面から、けしからんとか結構だとか、感情的になって苦闘していなければ、怒っていない。
そのときその場は、何かがないとか、ある面から見ていないとか、そういう場合。
さて、返事は、上記の…と思考していないとき、その思考はあるかないか、の検討と、同じであって、違いはないですね。
No.2651 - 2010/09/12(Sun) 21:10:57
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
どの投稿?宸ナ、誰が、なにが「ないと言っているのに」でしょう。
ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう機能のことではなく・・・とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です。
No.2653 - 2010/09/12(Sun) 22:39:50
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
2653
>どの投稿・で、誰が、なにが「ないと言っ>ているのに」でしょう。
おや、お互いのコミュニケーションの問題ですね。
2647 2643 2640 で、ないと言っている
>>>…と、思考してないとき に、
>>>…という思考は、あるのか、ないのかな?
一連の質問です。それに関して、
2641 2645で答えてみましたが、
さらに2651
>>という質問ですか。
>>ないと言っているのに、ある、ないを聞くので、そのままの質問としては、質問の意味を理解できませんでした。
>>答えてみましょう。
以上です。誰が、何を、は問題ではなくて、その内容、言っている意味が問題なのでは?
さて、
>ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう機能のことではなく
そうですか。
ある場面で、その思考の反応がないとき、ある考え方を忘れている、覚えていないとき、思考してない、思考がないということではない?
>・・・とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です
ある思考が現象していない、記憶にないときと、ある思考をしていないとき、の意味の違い、起きていることの違いを説明しないと質問の意味がわからない、
コミュニケーションがまだ成立していません。
No.2655 - 2010/09/13(Mon) 07:37:38
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
>ある思考が現象していない、記憶にないときと、ある思考をしていないとき、の意味の違い、起きていることの違いを説明しないと質問の意味がわからない、
しかし「ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう」ことは、ubik0101が提起したことではなく、投稿No.2651で、通りすがりさんが提起したことです。
>その思考が組み立てられ実働しているときに、その思考は、現象的にあります。
>そして、それを画面に記入して、相手に返事をゆだねたら、一時的に、表面的には忘れます。表面的には、ない。
>しかし、その質問をしたことは覚えていますので、なにかのきっかけで、思い出すとき、出てきます。
>記憶にはその思考はあったと言えます。
などと、あります。もしかして自分と、自分の思うこととのコミュニケーションが成立してないのは、通りすがりさんではないでしょうか。
それはともかく。とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です。自我と無我の説明が判るなら、それは、ある、または、ない、で答えられることです。または、これが自分のこととして判るなら、ほとんどの疑問は解決だから、しつこく聞いています。
No.2657 - 2010/09/13(Mon) 10:29:35
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
とある思考をしていないときに、その思考はあるかないか?
質問の意味が、私なりにわかる範囲では、繰り返すと、答えは次の通りです。
いま思っていないとき、表面現象的にその思考はない。
覚えているものは、関連があるとき、思い出すので、そのとき思考として表面に出でてくる。
忘れたり、覚えてないとき、記憶された思考もないので、もちろん表面に思考はない。
ただし、関連のある事柄には、組み立てて思考がつくり出されるということはある。
自我と無我ついての説明は、わかりますが、別項目で説明したように、問題点を含んでいませんか。
つまり、いい悪い、不満満足などの起きていることについて、勝手に時間と命名するような、余計な、わざわざの思考を自我としたわけですね。
また、もう一つ、いい悪い、不満満足に含まれる思考を介して、現実がいま見えるようなものに、いい悪い、不満満足のものになっている、思考があるという意味で、その思考もまた、わざわざの思考であって、自我なのではないですか。
しかし、わざわざの思考なしに、命名なしに、自我なしにものごとが見れらている無我の中には、怒りと名づけてきたものは、実は変容して、別の状態があるのではないですか? 不満、満足も変容したものになっている。
そして、さらに、不満満足の中で動くのではなく、それは置いておかれて、不満満足の思考がもたらすもの、事実が見られている。それを言葉にすると、言葉にしなくても、たとえば、思考=時間ということであるが、それはわざわざ思考した、苦闘の中の自我には属さない。事実そうだというだけ。
これは自分のこととして、よくわかるので、
思考=時間についての話を、興味がおありのようなので、話題を出してみたわけです。
何だかお互いに同じことを話しているのかな?
何か疑問がおありでしょうか?
No.2659 - 2010/09/13(Mon) 12:51:48
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ ubik0101
引用
> とある思考をしていないときに、その思考はあるかないか?
>
> 質問の意味が、私なりにわかる範囲では、繰り返すと、答えは次の通りです。
> いま思っていないとき、表面現象的にその思考はない。
> 覚えているものは、関連があるとき、思い出すので、そのとき思考として表面に出でてくる。
> 忘れたり、覚えてないとき、記憶された思考もないので、もちろん表面に思考はない。
> ただし、関連のある事柄には、組み立てて思考がつくり出されるということはある。
そんな意識の範疇に答えはありません。しかし、ある、ない、で答えられます。ま、楽しみに。というところです。
> 自我と無我ついての説明は、わかりますが、別項目で説明したように、問題点を含んでいませんか。
> つまり、いい悪い、不満満足などの起きていることについて、勝手に時間と命名するような、余計な、わざわざの思考を自我としたわけですね。
> また、もう一つ、いい悪い、不満満足に含まれる思考を介して、現実がいま見えるようなものに、いい悪い、不満満足のものになっている、思考があるという意味で、その思考もまた、わざわざの思考であって、自我なのではないですか。
それは、自我の機能、と呼んで言います。自我(そのもの)は、ふつうには知覚不可能です。それが人の行動、発言、思考、として現れることで・・・葛藤も軋轢も平穏もあるでしょうが・・・自我を知覚できたような気がする。だけです。つまり「わざわざの思考」がなければ、自我がない、というわけではありません。
> しかし、わざわざの思考なしに、命名なしに、自我なしにものごとが見れらている無我の中には、怒りと名づけてきたものは、実は変容して、別の状態があるのではないですか? 不満、満足も変容したものになっている。
ただ怒りは、ただ怒りです。不満、満足も、不満、満足です。変容すると言うことを、わざわざ言えば、無知が、叡智に転換する、です。
> そして、さらに、不満満足の中で動くのではなく、それは置いておかれて、不満満足の思考がもたらすもの、事実が見られている。それを言葉にすると、言葉にしなくても、たとえば、思考=時間ということであるが、それはわざわざ思考した、苦闘の中の自我には属さない。事実そうだというだけ。
> これは自分のこととして、よくわかるので、
> 思考=時間についての話を、興味がおありのようなので、話題を出してみたわけです。
> 何だかお互いに同じことを話しているのかな?
> 何か疑問がおありでしょうか?
とくにないですが・・・もし、なにかクリシュナムルティの言葉に疑問があったら、聞くかもしれません。ところで。通りすがりさんからの疑問がなければ、必要なら各自が、検討なり、探求すると言うことで、 まあ、話は、こんなところでいいように思います。
No.2661 - 2010/09/13(Mon) 15:48:05
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
新たな疑問はありませんが、感想を述べてみます。
そんな意識の範疇に答えはないとのことですが、そんな意識なのか、違う状態なのか、見分けているわけですね。
それはそうと、単純に質問に乗っかって、答えてみただけですので、どう判断されようと、ご自由に。
それ以上の質問は、私の関心ではありません。
私の言葉で述べると、
不満、満足(自我に)乗っかって、さまざまに意識して動いているのは、自我の機能と呼ぶわけでね。
不満、不安のもたらす事実「自我(そのもの)」は、不安、不満の動きの中にいては(普通には)知覚不能です。知覚できたように思っても違う。
わざわざの思考と、不満、満足の思考は、区別できない、同じ自我の機能だねということ。
このふたつを合わせて、わざわざの思考(自我の機能)と呼んだということ、そこをお間違いなく。
怒りは怒り、不満満足は不満満足というのは、きっと、前の誤解を引きずっていますね。
つまり、怒り、不満、満足という思考、命名を認めた上で、その上さらにさまざまなわざわざの命名、思考があるのかどうかだけを問題にしていませんか?
そうではないといいのですが、
怒り、不満、満足の状態を引き起こすその怒り、不満、満足の思考、(自我の機能)がないときには、怒り、不満、満足と認識され、感じられ(命名され)ていたものは、実は、実験的に、まるで違うものなのです。お分かりでしょうか?
関わり、感じるもの、行動が違う。
怒り、不満、満足によって、エネルギーを使い、ゆがんでいた行動が、新たな観察、感じの中で、その実際のものに気づいていることからの直接の行動が、実はある。
まあ、怒り、不満、満足からの行動こそ叡智の行動のように感じられるが、実は無知の行動であって、思考、命名なしの新たな観察からの行動は、何でもない行動とも言えるが、無知と対比して叡智の行動と言えなくはない。
とはいえ、それなしに、「無知が叡智に転換する」という話を聞いただけでは、事実の事柄としては具体的には何のことかわからない。
しかし、それを聞いても始まらない。
これで、一旦、お終いかな?
No.2663 - 2010/09/13(Mon) 18:14:15
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
春、緑に新芽が吹くまでには、それまでの実りをひとまず、捨て去ることが、必要かも知れません。そうでなければ、初春の芽吹きを見ることはできないでしょう。
その検討。その言葉。誤解を解けるのは、いつだって、その人自身でしかないようです。でも本気でなければ、とても難しいでしょう。
検討されてること自体、というよりも、その人自身が問題であること。正しく転換していない、こと。だからこそ、思考にありもしない幻想を付けることができたり、見当違いの検討をすることになったりします。思考とはただ、機能としてあるでしょう。人は成長して、それを見ることができるだけです。
この世界の要素とは本来、ただそのよう、です。眼耳鼻舌、心意。この、世界。経過を正しく辿るなら、そこからなにひとつ、捨て去る必要がないことを見ます。怒りは怒り。喜びは、喜び。それも人が変化(変容、成長)して、適材、適所にあるだけです。要点とは、正しい場所にあってこそ、意味を成すことができますよ。また、人は成長して、なにか去勢された犬のようになるわけでは、ないでしょう。
検討してるその人が、「検討しているその人が、」「ない。」ことを知ることから始まるしかないかも知れません。そのことを、一人で、正しく知らなければならないでしょう。そしてのち、検討も適材適所にあるなら、大変幸いです。
そうですね。一旦これでおしまいが、いいようです。
メダカが最近卵を抱えているのを発見して、とてもびっくりしています。出先から戻って夜、さっそく鉢を覗いてみたら、あっ!!!アマガエルのエルちゃんが蓮の葉に乗ってる!
漫画みたいな、ホントの話。
No.2664 - 2010/09/13(Mon) 23:30:02
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葛藤の思考の正しい場所は?
/ 通りすがり
引用
>怒りは怒り。喜びは、喜び。
怒り、半面の喜び、快楽、それはそれでよい、何一つ捨て去る必要はないと言える瞬間はあります、比較的に落ち着いて、正しくたどっているという確信と共にいるとき。
それでも、怒り、半面の快楽の最中には、それではよくない、何かを捨てる必要があると感じ行動しています。
相手が悪い、自分が悪いとなります、なんとかして変えなければ。
思い通りにはうまくいかない葛藤、矛盾があります。
しかし、怒りがないと、去勢された犬のようになると、想像し、感じます。そんな成長、正しい場所はごめんだねと思える。
怒りの葛藤には、このようにその思考に矛盾があります。
>要点とは、正しい場所にあってこそ、意味を成すことができますよ。
怒りの、葛藤の思考はどんな場所があるのでしょうか?
No.2667 - 2010/09/14(Tue) 08:14:41
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
> 人は成長して、なにか去勢された犬のようになるわけでは、ないでしょう。
問答無用です。
自分にとって、反面の怒り、反面の快楽、であることは難しいでしょう。本来そうした素材とは、正にそれ自身であるとき、余計な混乱を引き起こすことは難しいのです。不要な継続を生み出すことは、そもそもできません。
> いま現状のままがいいと思うとき、
> 実は、この思いは、継続的な思考の連鎖を当てにして、その手段で時間をうずめることで、維持を図ろうとしている?
> うまく維持されるような、その思考、その時間は、そもそも、あるのかな、ないのかな?
ここで、標題の件について疑念を抱いたその自分。について、一人静かに探求することで、よいのではと思います。
No.2668 - 2010/09/14(Tue) 10:56:35
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葛藤の思考の正しい場所は?
/ 通りすがり
引用
>問答無用です。
では、問答、対話はこれで止めましょう。
とはいえ、それでも生じた思いには返事しておきましょう。
>自分にとって、反面の怒り、反面の快楽、であることは難しいでしょう。
そうですか、でしょうとは曖昧ですが、とにかく、易しいとは言えないですか。
自分にとってという意味はおいておいて、
怒り=反面の快楽のとき、人のしていることに、自分のしていることに、怒るとき、それはそれでよくない、何か一つでも捨て去れ、と思っていませんか?
この点はどうですか?
反面の怒り=満足、快楽を求めているし、思いがかなうと一時的にも、すぐ反面の怒り=満足、快楽を容易に得ませんか?
快楽と怒りは、お互いに反面であって、紙の裏表よりも近く、一緒にありませんか?
あるいは、怒りの気持が一旦落ち着いていると、反面の怒り=満足、快楽の中で、怒ることもあるいまの自分で、それはそれでよい、何一つ捨て去る必要はないと、矛盾したことを、容易に思ってしまうとか。
>本来そうした素材とは、正にそれ自身であるとき、余計な混乱を引き起こすことは難しいのです。
余計な混乱とは、反面の気持を持つ、その行動をとるということですね。
すると混乱と、余計な混乱がありますが、怒り、葛藤は混乱だということですか。
正にそれ自身であるとは何かということが、まだ説明されていないですね。
何かに、あることについて、快苦の片面だけを持とう、嫌なものは嫌なんだと思おうとしても、それができれば正にそれ自身であると言えますが、実は、それはできないことなのではないですか?
怒りの瞬間には、あることにそそられ、しばらくは主張できても、しばらくすると、苦痛が嫌になって、他のことを考えてしまうとか。
あるいは、そのような葛藤、怒りをもたらす、それらの思考が消えている、持ち場がないというのを、怒りについて、正にそれ自身であると言えるでしょう。
そのときは、実は、余計な混乱も、もとの混乱もないのでは?
>不要な継続を生み出すことは、そもそもできません。
葛藤の必要な継続だけがあるということですか。
怒りの思考の持ち場がかかわりの中にないなら、葛藤の必要な継続も不要な継続も、共にない、葛藤ではないのでは?
>ここで、表題の件について疑念を抱いたその自分。について、一人静かに探求することで、よいのではと思います。
いま現状のままがいいと思う、あるいはよくないと思うことについて。
それは、私の分は、私にお任せください。
あなたの分は、あなたがどうぞ。
怒り、葛藤の思考がかかわりの中で、正しい場所を持つのか、あるいは場所がないのか、
思考が絡む部分は、時間的にも環境的にも伝わり、人は似ているので、何か断定だけではなくて、どういう意味か聞かせてもらえると思ったのですが。
では、これで終わりですね。
No.2669 - 2010/09/14(Tue) 12:40:20
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
> 思考が絡む部分は、時間的にも環境的にも伝わり、人は似ているので、何か断定だけではなくて、どういう意味か聞かせてもらえると思ったのですが。
> では、これで終わりですね。
そうです。
残念ながら、現状ではどうしても、その自分にて解決されるしかないとしか言えないでしょう。
怒りと快楽が裏表、或いは反面・・・それを葛藤、として執拗に看做される必要はありません。それはとりあえず見えやすいことのみを取り出して、言及されているに過ぎないのです。そうした状態に固定され、拘泥できるなら、まずはその自分自身(他人ではありません)が、問題です。
本来人は、そのとき怒りはただ、怒りであり、美しいはただ、美しいのです。
変化を正しく経て、初めて理解されることができます。
No.2670 - 2010/09/14(Tue) 15:45:40
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葛藤の思考の正しい場所は?
/ 通りすがり
引用
>残念ながら、現状ではどうしても、その自分にて解決されるしかないとしか言えないでしょう。
そういう現状だという認識ですが、でも次のことが通信として言いたいのですね。
見てみます。
>怒りと快楽が裏表、或いは反面・・・それを葛藤、として執拗に看做される必要はありません。
執拗かどうか、また、看做すかどうかの問題ではなくて、
ある面から、どうあるべきだという、私は気に入らないのだ、怒っていると呼ぶ、抵抗の思考があるかないか、葛藤があるかないかどうなのかは、現状の理解上は、どちらもあるので、必要なことでしょう。
それで、その思考がある葛藤の場合、思考の正しい場所があるかどうかを聞いたわけです。
その質問に、すっと乗れないですか?
それで葛藤の状態の場合に、執拗、看做すということが問題視されるということは、逆に、葛藤がない怒りの状態の場合に、執拗に、看做すことが起きているということでしょうか?
>それはとりあえず見えやすいことのみを取り出して、言及されているに過ぎないのです。
みえやすいというより、世の中によくある、葛藤がある場合に過ぎないということ。
また、それのみ言及されているというのは、間違いです。
なぜなら、かかわりの中で、葛藤の思考が消えている、その思考が関わりの中に持ち場がない、正にそれ自身である場合が取り上げられていますから。そこは見逃されたのですね。
>そうした状態に固定され、拘泥できるなら、まずは自分自身(他人ではありません)が、問題です。
葛藤の思考が消えている、関わりの中に持ち場がない、正にそれ自身である場合が取り上げられていますから。それは、その状態に固定され、拘泥できるということではないので、そもそも、問題がないのだなということでしょうか?
さて、葛藤の思考がある場合、状態であれ、ない場合、状態であれ、そうした状態に固定され、拘泥できるなら、それも、葛藤ということで問題になるのでしょうね。
それは自分が問題だというのは、その葛藤の思考がそもそも問題だという意味ですね。対象としての他人などの何かが問題ではなくて、自他の分離などをもたらす、葛藤の思考そのものが問題なのだと。
その「自分自身(他人ではありません)」という表現で誤解されやすいのは、次のことでしょうか。怒るとき、他の人が悪い、自分自身が悪いとして対象を決めて怒りますが、そのように分離した意味での対象の他人や対象の自分自身が問題だと、解釈されやすい。
そうではなく、固定し拘泥する、自他の分離をもたらす思考のありよう自体が問題なのだと。
>本来人は、そのとき怒りはただ、怒りであり、美しいはただ、美しいのです。
美しいにも、一定の様式に合えば美しい、魅力から手に入れたいものなら美しいとして快楽を感じ、一定の様式に合わなければ醜い、捨てたいなら、醜いとして嫌悪を感じるような美しい、つまり葛藤を含む美しというのもあります。
本来というのが、またさまざまにありますが、どういう意味でしょう?
とにかく、目の前の葛藤の美しいの場合は、ちょっと条件が変わると、醜いに急変するわけなので、それは本来の美ではないというわけですね。
本来というのは、目の前の現実のことではなくて、絶対に真実、事実だ信じる本質といった信仰、信念を指していることもあります。
現実は葛藤がある醜だけども、それは表面的であって、本来は美なのですと言うときなど。
本来というのは、そうですねー、私にとっては、どういうことだろう?
たとえば、本来というのは、葛藤の思考が、関わりの場で持ち場がない、そういう状態で、起きることですね。
その場合、日常、わざわざ、怒りとも命名しないし、意識しないで、過ごしていることですが、
たとえば、わざわざ怒りと呼ぶとしたら、急変したできごとに、労力の掛かるできごとに、とっさに、心身全体で精一杯応対しているような状態のことでしょうか。
そのときの気持、身体の感じは状況に応じて生じては消えるものであり、知覚されるもので、強弱はありますが、もくろむ思考によって急変するような反対の状態はありません。
だから、それを怒りと呼ぶなら、強弱があるのみです。
その場合、美についても、日常、葛藤の思考の持ち場がないときの関わり生じるもので、わざわざ美とは命名しないものですが、
たとえば、わざわざ名づければ、新鮮さ、鮮やかさ、急変する状態の知覚、非常に簡素な、整った感じなどの感覚でしょうか。ある場面で、生じて消えていくものですか。
それも強弱はありますが、もくろむ思考によって、醜に急変するような反対のものはない。
>変化を正しく経て、初めて理解されることができます。
これは私には意味不明です。
私であれば、こう言いますか。
怒りのあるいは美の、葛藤の思考が理解され、解放されているとき、かかわりの中で思考の持ち場がないとき、ものごととの関わりで、観察からの直接の応答がある中で、変化が生じているとき(それが葛藤の思考による間違った経過ではなく、変化を正しく経ているということですが)、そのとき初めて、知覚される(理解される)ことができます。
No.2671 - 2010/09/14(Tue) 18:35:44
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
通りすがりさんは、本当に検討がお好きなのですね。本日は長いこと、お付き合いさせて頂きました。
>変化を正しく経て、初めて理解されることができます。
>
> これは私には意味不明です。
>
> 私であれば、こう言いますか。
> 怒りのあるいは美の、葛藤の思考が理解され、解放されているとき、かかわりの中で思考の持ち場がないとき、ものごととの関わりで、観察からの直接の応答がある中で、変化が生じているとき(それが葛藤の思考による間違った経過ではなく、変化を正しく経ているということですが)、そのとき初めて、知覚される(理解される)ことができます。
そうですね。たとえばその「変容」とは、人の土壌に関わるもの、といいましょう。それは経てみなければ、理解することはないでしょう。
たとえば大変に頭脳明晰で、知的分析が得意として、
思考でもって、なにか真実というものに僅差に迫ることができるかも知れません。けれどここは、残念ながらどうしても、まずはそれに至っていなければ、ならないのです。こと人の意識の変容については、実態としての変化が不可欠、といわねばなりません。なにか言及しているとして、知的分析の領域にあるかどうか、或いは、(そういう表現をするとして)それ、から発露されているものかは、表現の機微、或いは視点その仔細に、どうしても現れてしまいます。
人は誰しも、愛し愛されるその人として、そして尚、すべての人がこうした探求、「自分とは、なに?」に向かうこともないでしょう。現状でいい・・・ならそのようです。その自分に問題ないとなれば、ただそのようです。けれど、(そういう表現をするとして、)真実を得ることもないでしょう。
もし、知的精神的満足を得るための趣味の領域として、ではなく、本気で自己への探求に向かうなら、
その、自分。を解決すること。だけ、です。
画像は夏半ばから、初秋まで咲くという、犬蓼(いぬたで)です。庭のかたすみにひっそりと、紫のような桃色が目をひきます。
No.2672 - 2010/09/14(Tue) 21:01:32
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ 通りすがり
引用
ああ、ご自身の思いを話しておられますね。
ありがとうございます。
それに感想を述べて、これで、私の話もお終いです。
問いたい質問はありません。
>なにか言及しているとして、知的分析の領域にあるかどうか、或いは、(そういう表現をするとして)それ、から発露されているものかは、表現の機微、或いは視点その仔細に、どうしても現れてしまいます。
それだけではなくて、生活の中で、実際に言っていること、思っていることと、していること、起きていることとの違いは、あれば出てくるでしょう。
葛藤、混乱、思い違いがあれば現れるでしょう。
お話は、この場のように、言葉で表現したとき、それが実際に起きていることか、知的な理解に過ぎないのかどうか、あるいは葛藤、思い違い、混乱があれば、よくみているとわかるということですね。
よくみているつもりで、見る側が間違うということもあります。
それは、人が違うと、よく起きることですね。
それで、実は、自分自身が、実際に思い違い、葛藤、混乱なしに、実際に生きているのでないと、そもそも、しようがないことです。
そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。
ここでは、意識的に問題があると発言する場合、その検討や、
検討の中で出てくる、うっかりした思い違い、混乱、葛藤と看做されるものの検討ができるのでしょう。
>現状でいい…なら、その自分に問題がないとなれば、ただそのようです、
この場ではそうなる傾向が強いとはいうものの、
人はかかわりの中で生活していますから、自分は問題ないという人が、問題に関係があるとして引き出される事態も、社会では起きてきます。
そのときは、問題ないと言い張ってすますわけにもいきません。
また、自分に問題はないが、外部の問題を認めるなら、解決しようと動くので、そのとき、当人が、自分の問題のありかに気づくこともあるそういう機会でもありうるでしょう。
>その、自分。を解決すること。だけ、です。
そうなのですが、実は人は関わって生きているので、その関わりが、他の人との影響のある社会でもあるわけです。
自分の中で、知的な理解ではなく、矛盾、思い違い、混乱、葛藤のない生が生じているとき、新たな影響、新たな社会を作っているわけです。
今回は、どうも御苦労さんでした。
とりあえず、終わり、休みましょう。
No.2673 - 2010/09/14(Tue) 22:20:57
☆
Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
そうですね。ubik0101さんより・・・そのうち庭仕事でも手伝いにきてください。こき使ってやる〜。。。奥様もご一緒にどうぞ。とのことです。
それでは、また。
No.2674 - 2010/09/15(Wed) 08:25:00
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感想
/ suho
引用
>そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。
通りすがりさんの言葉を読んでいて、まさに、この動機・問題が、通りすがりさんの内面に生じているから、このスレッドような反応(内面の投影)として顕れているように感じました。
>それで、実は、自分自身が、実際に思い違い、葛藤、混乱なしに、実際に生きているのでないと、そもそも、しようがないことです。
実際に生きているか生きていないかの他者の品定め。
>そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。
まさにそうですね。
No.2675 - 2010/09/15(Wed) 15:11:14
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
suhoさんっ、じつはきのう、なんとメダカの赤ちゃんを発見!!!してしまいました。
「ええっっ?!もう???早すぎではないの???」
餌をやりすぎたのか、たしかに近頃メダカたち、妙におっきー。。とは思っていましたが・・・卵も見てはいましたが・・・ホテイアオイの根のなかで動いてるものがいて、ミジンコかなと見ていたら、メダカでした。透明で、ほんとに小さな、きのうは2ミリ程度、今日はもう少し形がはっきりしていて、おどろきもものきさんしょのきです。
成魚に食べられてしまうといけないので、急いで小さな鉢を用意して、今朝、移し変えました。こんな小さな魚、初めて。
まだわかりませんが、ubik0101さんと、ちょっと楽しみなところです。
No.2676 - 2010/09/15(Wed) 20:46:34
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ suho
引用
> まだわかりませんが、ubik0101さんと、ちょっと楽しみなところです。
めだかの赤ちゃんといえば、小学生の頃、学校でめだかの飼育をした記憶が浮かんできました。
たしかにすごくちっちゃいので水槽にガッチリ顔をはりつけて見ていたような。。
ちっちゃいと言えば、プランクトンも家で飼育したような記憶もあるな。学研で出していた小学生向けの定期雑誌の付録で付いてきたセットだったような。。
小さい生き物って見ていると時間を忘れて見入ってしまいますよね。なんでこんなちっちゃいのに生きてるんだろう、なんでからだが透けてるのかと不思議でしたね。
最近は身体のはたらきへの関心がますます高まってきたところです^^
No.2677 - 2010/09/16(Thu) 06:42:41
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Re: 維持の手段である思考=時間?
/ hato
引用
学校で飼育、て懐かしいですね。そうですね〜、なんかもう、学校から帰った子供がカバンをほったらかしで、芋虫の幼虫とか釘付けになって見てる・・・メダカ版の、そんなこの頃です。
hato
そ、いえば・・・なんかの雑誌の付録の小さな球形の顕微鏡を、いつもポケットにいれて歩いてて、蝶の鱗粉を見て、うわ、と思ったり・・・マッチ箱に色紙を切って入れて、蓑虫に、カラフルな蓑を作らせたり・・・日光写真、模型飛行機、木の潜水艦。ありました。ありました。
ubik0101
この夏は、庭のあちこちに、こんなど派手な芋虫がいました。お尻に小さな旗のようなものがついていて、ひらひら揺らして歩きます。調べているのですがまだ不明で、なんだろ、と思っています。
No.2678 - 2010/09/16(Thu) 17:44:36