| 人に於いて、止観(ここでは、純粋に言葉として使います)が止観として十全に全うされたとき、それ、は意識、感覚器官のあらゆる彷徨とは無関係に、その個人にまったくそれとして成立しており、
人は、時間がかかるにせよ、短期間にせよ、個人的物の見方、流儀のさ迷いごとに煩わされない状態を、得ざるを得ないでしょう。どのような形であれ、意識はそれを正確に学ばざるを得ないでしょう。そこで改めて自己を問い、それを読み解く作業が起きるといえます。十全に全うされていること、はとても大事でしょう。
意識にとって、膨大に過ぎるそれらが解凍され、充分に柔軟を得たのち、人の意識は、漸く学び得ることができます。
それはまったく、個を超えているが故に、まったく「個人的なこと」として、起こります。この身体、この、私。十分に活用して、人は学びます。
少し前ですが、突然庭に、曼珠沙華が生え揃いました。ubik0101さんもわたしも、ちょっと、こわい感じ。でも、彼岸どきにこれが咲くと、やっと秋がきたと、喜ぶ人も多いそうです。
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No.2749 - 2010/10/25(Mon) 20:56:34 |