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記事No.2788に関するスレッドです

(No Subject) / hato

ヤフー掲示板の話が出たのですこし。

愚さんとお会いしたのは、たしか、露草が咲く頃だったでしょうか。こちらとても楽しみに、新宿の繁華街、早めに着いてしまって、店の向かいのスタバで時間を待ちました。

この風変わりな夫婦。高くとまってる風なおっさんと、ちょっと、可愛い、ノータリンな奥さん。と受け止められたでしょうか。ubik0101さんの無礼に、それもいいんだ、と許して頂いたのかも知れません。あちこち携帯連絡が入って忙しそう。人気者の、愚さん。そんな日中の会食を思い出しました。


自分が提案した、良い悪い、ではない、善いを。
について、返答はいまいちだったけど、

なにより、変化の体験が、その意識世界、すなわち、緯系の表現に於いて起きた場合、そこを超えていくことは簡単ではないのでしょう。意識とは世界に限定されている故に、そして、その意識に依存して成立した変化である故に、難しいのです。

ここで起きる意識の高まりを自己、さらにはそれ、に向けて、十分静かにもう一歩踏み込み徹底理解することは、一大事といわねばなりません。頭脳明晰であっても、世事の片手間、というわけにはいきません。それなら、顛倒です。またそれは、なにか処世術にはなりません。世間を上手く生き抜くための知恵とも、無関係です。

総てはひとつ、といわれるとき、その体験は、世界の総てを収斂されるように感じとれるゆえに、満足されるのかも知れません。本気でなければ難しいということは、ある意味ここから、と言えるのです。

或いは生死、その他の件について折々に正しい境を見出せず、見出さないことを多くよし、と見ることは、そのままではどこか危うい、というのは、はっきりと、そういうことでは、ないからです。そうした場合、表現は、諸所にどうしても、誤らざるを得ないかも知れません。

言葉は、人の変化が十全に全うされたときに、本来に沿い正確に置かれることができる、可能性を見出すことができます。

たとえばこのサイトで、言葉は非常に注意深く使われます。一字一句が命懸け、とはその意味です。可能な限り、おざなりにあることはありません。というより、できない、のです。言葉にできないんだ、では済みません。そのようにできているわけでは、ないからです。

世界とは、総てを孕んで尚、素敵。
もちろんいつだって、提案でしかないのです。


涼しくなってきたけれど、子メダカ順調に発育中です。
この大鉢。小さな車に乗せて、一緒にかついで据えました。

No.2786 - 2010/10/31(Sun) 01:22:04

こんばんは / peer
表現できる、ということは、理解している。
ということでもあるかな〜と思ったり。
突き詰めていって言葉では表現しきれない。
そんな言葉の限界が・・・ある?。
そこを超える。と別の地平が見える?。
どうなのかな〜とかとかとか。
結論がない。です。

前回、写真を載せたアレは、あれから葉のついた枝が
全部落ちてしまって、そのまま枯れてしまうのかと
心配したのですが、また新しい芽が出て
こんな具合に再起してくれました。

これから冬に向けて・・・また心配です。

No.2788 - 2010/10/31(Sun) 02:15:44

Re: / ubik0101
たとえば、言葉で表現はできても、理解してない、ということもあります。霊感とか感覚で、事実を語ることもあります。なんとも言い得ないことを、言葉にできてることもあります。たとえば。三好達治。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ

その人が、それを見たままを話してるかは、響きで、雰囲気で、文章構成で判るというのもありますが、それが絶対とは言えません。 聞く人が判らないだけということもあります。

そいうこと総てを含んで、逆説的に説明すると、だから理解を、言葉で正確に表現できます。 それにしても、なにかを話してると、その大前提は・・・数学の公理のように・・・問題にならないほど疑わないこと、となってるのですが・・・理解とは?、表現とは?どいうことか、このへんを探ると面白いかもしれません。

とても山椒は丈夫なんですが、育てるのは難しい、と言う人もいます。たしかに夏にいったん落葉して、ちょっとだけ葉がでても・・・次の春には新芽がでないので、枯れたことが判る・・・ということもあります。 でも、たぶん、これだけ葉が繁ってれば、大丈夫だろうとは思います。

No.2790 - 2010/10/31(Sun) 12:19:37

Re: / peer
>たとえば、言葉で表現はできても、理解してない、ということもあります。

>それを見たままを話してるか・・・ 聞く人が判らない

言葉で理解していても行動で理解していると思っていても
じつは、なんにも理解していない。ということもあるようです。
自分を理解しているつもりで、ちっとも知らない。
無明というようなこと。も、あるし。

たとえば、愚さんが、
「ああ、あなたがわかってないことはわかった・・・だから悪いってわけじゃ
ないんだ・・・せっかくいろいろ考えているのはわかるし、それは
それで意味があるんだ・・・」
「ただ、まったく別の地平があるんだ・・・」と書きます。
そのことを言っているのかな〜。
なにが書かれているかは、書かれる前に相手が何を見ているかを
知る必要もあるようで。相手がどこにいるのか、とか。

まっ。hatoさんの
>言葉は非常に注意深く使われます。一字一句が命懸け

は、わたしてきには、言った言葉に対して、責任を持つ。
言ったことをナシにはしない、言い換えで誤魔化さない。
そんな感じ。どんな言葉も、「いま」に正直に。

山椒・・・つぎの季節に芽吹こうと準備している芽。が
季節を待たずに芽吹いてしまう。すると春に芽吹かない。
なんてことになるのかしらん〜山椒は初めてなので・・・
研究してみます。

No.2796 - 2010/11/01(Mon) 14:31:11

Re: / ubik0101
その「それを見たままを話してるか・・・ 聞く人が判らない」というコメントを書きながら・・・愚さんの姿勢を空想したと訪問者さんに思われるかな・・・と、ちらと感じましたが、とくに何かを想定したわけではなく、主なケースを網羅したかったのです。

それで。なにかを体験してても、まだ意識に教えてない、だけ・・・たぶん、これを言葉で表現できないと言ったりすることもあるでしょう・・・とかいうことを、書き忘れたのが、気になっていました。

>言葉で理解していても行動で理解していると思っていても
>じつは、なんにも理解していない。ということもあるようです。
>自分を理解しているつもりで、ちっとも知らない。
>無明というようなこと。も、あるし。


ま、基本的には、なにも理解してないです。理解できることなどないです。知らない、のです。なんでもいいですが、たとえば、いま秋の夕暮れです。それが見える・・・どこかの犬の鳴き声、それが聞こえる・・・思考する・・・なんであれ、総て、なんであるか、まったく知らない、です。

もちろん自我だろうが、無我だろうが、まったく知らない、です。 ほかの言い方では、これは何?です。もっと言うと・・・これは、これ、でなくてもいいのに、これ、です。この日常が神秘です。ぶちゃけた話、あんまり機能してないけど、葛藤だって、神秘です。ということは、それだからこそ・・・この世界に依存しない、依存できない・・・それが世界の機能です。

>なにが書かれているかは、書かれる前に相手が何を見ているかを
>知る必要もあるようで。相手がどこにいるのか、とか。


そうですね。とりあえず、KB会の映像、これを言いたい、という部分を見てみましたが・・・つまらないです。こんなことを思いました。↓

ある重病人が、集まった友人や家族に「ちょっと部屋から出ていてください」と頼んで・・・その友人や家族が戻ってきたら、死んでた。そうです。

また、一人暮らしの人の家を訪ねたら、仰向けで胸の前で手を合わせたまま・・・死んでた。そうです。

まあ、死に方なんかどうでもよくて。昨日も明日もないのに、どう死のうなんて、どうしてもと言われなければ空想しないけど・・・じたばた死のうが、ただ死ぬとき死のうが・・・その死につつある自分を、できれば観察するだろうし・・・どう違うというのだろう。でも、いわゆる自我の死と、身体の死とは、おなじことになると、いいな。

こんな手の届かないところの柿は、野鳥の取り分です。

No.2797 - 2010/11/01(Mon) 16:03:44

Re: / hato

pc教室から帰ってきて、柿、よい頃のをいくつか採って、
知人の家に、お土産に置いてきました。

山椒、楽しみですね。
木々や、鳥も猫も冬支度で、
こちらの山椒もだいぶ、葉が落ちて、初冬を感じます。

No.2804 - 2010/11/01(Mon) 21:13:23