ヤフー掲示板の話が出たのですこし。
愚さんとお会いしたのは、たしか、露草が咲く頃だったでしょうか。こちらとても楽しみに、新宿の繁華街、早めに着いてしまって、店の向かいのスタバで時間を待ちました。
この風変わりな夫婦。高くとまってる風なおっさんと、ちょっと、可愛い、ノータリンな奥さん。と受け止められたでしょうか。ubik0101さんの無礼に、それもいいんだ、と許して頂いたのかも知れません。あちこち携帯連絡が入って忙しそう。人気者の、愚さん。そんな日中の会食を思い出しました。
自分が提案した、良い悪い、ではない、善いを。 について、返答はいまいちだったけど、
なにより、変化の体験が、その意識世界、すなわち、緯系の表現に於いて起きた場合、そこを超えていくことは簡単ではないのでしょう。意識とは世界に限定されている故に、そして、その意識に依存して成立した変化である故に、難しいのです。
ここで起きる意識の高まりを自己、さらにはそれ、に向けて、十分静かにもう一歩踏み込み徹底理解することは、一大事といわねばなりません。頭脳明晰であっても、世事の片手間、というわけにはいきません。それなら、顛倒です。またそれは、なにか処世術にはなりません。世間を上手く生き抜くための知恵とも、無関係です。
総てはひとつ、といわれるとき、その体験は、世界の総てを収斂されるように感じとれるゆえに、満足されるのかも知れません。本気でなければ難しいということは、ある意味ここから、と言えるのです。
或いは生死、その他の件について折々に正しい境を見出せず、見出さないことを多くよし、と見ることは、そのままではどこか危うい、というのは、はっきりと、そういうことでは、ないからです。そうした場合、表現は、諸所にどうしても、誤らざるを得ないかも知れません。
言葉は、人の変化が十全に全うされたときに、本来に沿い正確に置かれることができる、可能性を見出すことができます。
たとえばこのサイトで、言葉は非常に注意深く使われます。一字一句が命懸け、とはその意味です。可能な限り、おざなりにあることはありません。というより、できない、のです。言葉にできないんだ、では済みません。そのようにできているわけでは、ないからです。
世界とは、総てを孕んで尚、素敵。 もちろんいつだって、提案でしかないのです。
涼しくなってきたけれど、子メダカ順調に発育中です。 この大鉢。小さな車に乗せて、一緒にかついで据えました。
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No.2786 - 2010/10/31(Sun) 01:22:04
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