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記事No.2879に関するスレッドです
★
(No Subject)
/ あちこち
引用
人を
CENSORED
、それはふつう、思考にある善悪から論議されます。
しかし、人を
CENSORED
というのは思考にある善悪に属さず、悪なのです。
そうなのか?
No.2866 - 2010/11/10(Wed) 08:20:56
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Re:
/ ubik0101
引用
そ、です。
たとえば、船が沈没しました。そこで、救命ボートから誰かを引きずり降ろしても自分は助かる・・・それは合法・・・と、ほんとかどうかは知りませんが・・・聞いたことがあります。
それは悪ではない・・・ということも、思考の範疇の判断です。ま。そのような。船が沈むとか、一人を殺せば百万人が助かるとか、そんな状況に陥らないのは、幸せなのかもしれません。
No.2868 - 2010/11/10(Wed) 11:26:20
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Re:
/ hato
引用
たとえばNo.2802の言明があるとします。
ここでは、「思考上の善悪、に属さないけど悪なのだ。」も、ない。といわねばなりません。この不思議。これを正しく、不可−思議、と表現します。それ、しかないのです。それを、未知ながらの道、といいます。
思考ではないが悪、とは、たとえば、この世界の、誰でもない誰か・・・でない場所から発することができるでしょう。なぜなら、誰でもない誰かにとって、問題が思考でないことは明白であり、思考を主とした、且つ二義的な問いが、起こりようがないからです。
人がなにか善悪を判断する、思考する、以前にそのようであること、だけが本来です。検討意義とは、第一義にその自分に適用されることでしか、道理に沿うことができません。あれこれ枝葉への検討、その前に、「その、自分」を正しく問うことによってなされます。
すなわち、その自分、とは。
No.2879 - 2010/11/12(Fri) 18:31:15
☆
Re:
/ ubik0101
引用
もっと突っ込みがあると思ったのですが、
ちょい話が中途半端です。
こっちのスレッドを続けてみます。
たしかに善悪は、思考にしかありません。つまり世界には、善悪はない、という意味です。だったら、その善悪の概念に縛られる必要はなく、なにをしてもいいのでは?という疑問があるかもしれません。しかし、それも思考からのことです。
そんな思考に束縛されてないなら・・・たとえば「人を殺さない」と、いうことに理由がない、ということが挙げられます。「人を
CENSORED
」ということが正当化されるなら、そこには、たぶん、感情のもつれとか善悪とか損得とか、なにかの理由があります。 それも、また、思考からのことです。
そいうことがなければ、「人を殺さない」、ということも初めから念頭にない当然のこと、つまり理由なく、「人を殺さない」です。こんな意味で、理由がないことが正しい、ということは、さんざん自我の機能から学んできたのではないでしょうか。
ところで実は、思考の範疇から解放されてなければ・・・世界には善悪はない・・・ということは思考はできても・・・了解はされません。そして思考から解放されたら、すくなくても、ほんとに善悪から離れて、生きればいいです。ならば、とくに悪は出来ない、です。
また。もし悪いことをすると、そこで、悪い世界をつくってしまいます。また、悪い自分をつくってしまいます。それでも構わない、というのは、悪、です。こんな悪は、思考にしかありません。と知っては、出来ないことです。
というのも、理由なしの悪があるとしても、それは無知ゆえの悪です。そいうことを、さんざん学ぶのが自我の機能です。そして、無知、それからの解放がなければ・・・くり返しますが・・・世界には善悪はない・・・は、見ることができません。それを見るなら、悪をしません。
それで、「悪いことをしてはならない、善いことをしよう」です。 具体的には、
CENSORED
はならない、盗んではならない、嘘をついてはならない・・・とか、です。このことは、世界がそうなりたいと望んでる、ということでもあります。
No.2880 - 2010/11/12(Fri) 18:32:14