とても、うろ覚えですが・・・ある修行者が「自分て何ですか?真理て何ですか?」とかいう質問をしました。すると、馬祖という禅師が「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」と、答えました。
なんと返事しますか?
それで「もう飲みました」と返事すると・・・「じゃ、どんな味でした?」と再質問されるでしょう。そうすると「それは無味です」とかの返事を要するかもしれません。
そうでなくて、馬祖の最初の質問「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」を、根こそぎ片づける返事が望まれます。さて、なんて返事しますか?
ubik0101なら、こう返事します。
えーっ、太平洋の水だけで、いいんですか?
すると、これを読んでる誰かが《なーんだ》と思考したとします。そこで。その思考は、その思考が、その始源でしょうか?これは明らかに違います。
たとえばubik0101が、こんな話をしたから、《なーんだ》と、思考されたのです。つまり、その思考の始源は、その思考にはありません。もし、その思考が、その思考の始源なら、それだけで、世界を越えてしまうのです。この前、聞いた仏教用語では、解脱、するかもしれません。
それはともかく日常、その思考は、その思考の始源ではない・・・これは、あまりに当然で、気がつかないだけかもしれません。それに気がついた・・・ならば、なんだかの思考、それは、自分のもの、また誰のもの、として、成立するでしょうか。反応が続いてるだけではないでしょうか。どこに、私、がいるでしょう。
なかなか困難かもしれませんが 続く、と思います。
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No.2905 - 2010/11/18(Thu) 09:17:04
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