[
掲示板に戻る
]
記事No.2978に関するスレッドです
★
ガチャピンとムック
/ ルー
引用
頭がものすごく光ってますね(笑
それに、巨大ですね!
可愛いを超えてると思います〜(笑
今日、母と電話で話しました。
そして、侵入されずにいられました。
これを自己の確立というのでしょうか。
自己が自己として収まった感じですよ。
自分が納得できる地点に到達するまで、自己は安定しないものなのかなと思いました。
No.2956 - 2010/12/02(Thu) 14:51:44
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
ねえ、いいですよね。思わず、撮ってね〜!!と叫んでしまいました。
ルーさんは、本当にお母様との関係性で学ばれることが多かったのでしょうね。それまでの経験を、自己を知るための道筋としてみることができるとしたら、幸いなことではと思います。
厳密にいえば、自己は、その自分のあれこれとは無関係に、単にそれであります。とある局面の自分が昇華されるとき、ふと、それであることが起きます。そして尚、深く、より深く、自分が理解されていくことが必要かも知れません。少しずつ、少しずつ、薄皮を剥ぐように、或いは突然の閃きによって、為されていくことが、あるかも知れません。
関係性は贈り物と思います。本当になんて、総てを孕みながら素敵なのかと思うのです。
ナナが風邪気味で、鼻が真っ赤になって可哀相です。餌に薬をまぜて、様子を見ているところです。
No.2958 - 2010/12/02(Thu) 21:16:21
☆
Re: ガチャピンとムック
/ ubik0101
引用
ふと・・・そのことがルーさんの、お母さんに伝わったとして・・・秘かに乾杯する、そんな、お母さんだといいな。と、思いました。
(いろんな人の間で、軋轢や葛藤があるのでしょうが、その奥には、自分勝手にしても、そうでないにしても、ほかの人に成長して欲しい、無知蒙昧なまま生きていて欲しくない、そんな気持も隠れていることもあるでしょう。これが、根が深いことがあるようです)。
そして。どのようにでも、いい加減にできるかもしれませんが・・・たしかに・・・自分で納得する。それが、いちばん厳しい基準です。
No.2959 - 2010/12/02(Thu) 21:18:45
☆
Re: ガチャピンとムック
/ ルー
引用
ありがとうございます。
もし、私が母と同類の人間であれば、母に対しての問題はなかったのでしょうね。
No.2960 - 2010/12/02(Thu) 22:41:29
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
> もし、私が母と同類の人間であれば、母に対しての問題はなかったのでしょうね。
なにかについて、同じ反応や対応ができる人間であれば、関係上無問題かといえば、必ずしもそうと言い切れないでしょうね。たとえば、親愛の情が強いゆえに、関係性に依存してしまって自己を見失えるなら、そのほうがより、重大な問題だったかも知れません。
ルーさんは元来とても、人を放っておけない、情の厚い、優しい人なのではと思うのです。そのような人の場合、自己からみて、まず自己を発見して貰うより、親子供のほうに向かっていってしまわれることは、なにより問題です。(念のため、自己はなにか擬人化できるものではありませんけれども、)
その母は、ある程度鬼母であったことで、優し過ぎるルーさんを適度に突き放してくれた、ともいえるかも知れません。或いはルーさんが、無意識にせよ、意識的にせよ、なぜ生まれてきたのだろうか、と疑問に思うことを提供してくれたのかも知れません。ほかの誰の為でもありません、ルーさんの為には、それほどまでに憎い母でなければならなかったのです。
実際にお母さんがどうであるかより、ルーさんが選ぶだけで充分です。もちろんこれは、たとえ話ですよ。ルーさんの人生ですから。
人生は誰にとってもきっと、気付く機会を得るなら、上手に、自己に向かうようにできています。まずはそれだけ、といえるのです。
No.2961 - 2010/12/02(Thu) 23:51:31
☆
Re: ガチャピンとムック
/ ルー
引用
私が「鬼娘」となり、母親を適度に突き放すことができたことで、正常な状態に持っていけたのかも知れません。
母親が「鬼母」であり、「娘を適度に突き放す母」であったなら、その娘は、日常的に辛いことはあったでしょうが、問題がわかりやすく、対処の仕方もわかりやすく、自己の確立も早かったかも知れません。
「いい母」に見え、「娘を自分の一部として取り込む母」である場合は、娘にとって、問題がわかりにくく、自己の確立が難しいのだなと思いました。
私は、長年かけて、諦めず、よく頑張ったと思います。
真摯に生きるには、そうするしかないわけですが。
生まれたときに持っている魂というものは、人によっていろいろなのでしょうね。
その魂の声を聞きながら生きていくのだと思います。
No.2964 - 2010/12/03(Fri) 08:36:59
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
> 母親が「鬼母」であり、「娘を適度に突き放す母」であったなら、その娘は、日常的に辛いことはあったでしょうが、問題がわかりやすく、対処の仕方もわかりやすく、自己の確立も早かったかも知れません。
関係性のなかで、互いにそうしたことをしつつされつつしながら、人は学んでいくのだと思います。常にその人にとってちょうど良い学びがなされるよう、上手く配置されること、その意味でも、本当に上手くできている、といつも思うのです。
「hatoさんは、鬼嫁です〜」と、ubik0101さんは述べております。あ。そう。
庭に菜花が生えていて、蕾ができたので、すこし収穫してみました。
No.2965 - 2010/12/03(Fri) 21:01:33
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
> 生まれたときに持っている魂というものは、人によっていろいろなのでしょうね。
>
> その魂の声を聞きながら生きていくのだと思います。
自身に尋ねていくこと。本当に、大事と思います。
生まれたときに持っている魂。もしかすると、人それぞれの個性といえるのかなと思います。自分はとくに、魂、そのように考えることはないかも知れません。この自体は、未知ながらの道、と見ることがあるようです。それがぴったりします。
けれど、魂、その導きとのことが、誰かにとってぴったりくるものであれば、あらゆることを使って進んでいけることがなんと素晴らしい、と思います。
No.2967 - 2010/12/03(Fri) 22:01:27
☆
Re: ガチャピンとムック
/ ルー
引用
キリスト教では「精霊」というもの。
そのようなものを、私は小さい頃から認識していたように思います。
自分の中にあるのか外にあるのかどうかわかりません。
私と一体としてあるもの、みたいな。
それは「家庭教師」のようなものだという牧師さんがいます。
そのようなものを私は魂と感じるんですね。
たしかに「ある」と認識できるんです。
私が通っていた幼稚園がキリスト教で、毎日神様にお祈りしていたことと関係しているのかも知れません。
No.2969 - 2010/12/04(Sat) 00:47:19
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
> そのようなものを私は魂と感じるんですね。
> たしかに「ある」と認識できるんです。
>
> 私が通っていた幼稚園がキリスト教で、毎日神様にお祈りしていたことと関係しているのかも知れません。
ルーさんは、本当に敬虔にお祈りするのでは、と思います。
様式は違うかも知れないけれど、自分はそうしたところをとても大切にする方に巡り合って、その観点から助けて頂いたことがありました。導かれることは、もし、妄信のみに終わるなら寂しいことですけど、人は、さまざま助けられますね。
ごく小さい頃、朝目覚めたら、住んでいた団地のベランダに、ピンクの雲が来ていて、それがとても幸福感のある、とても愛され、守られている感覚。・・・夢なのだろうけど忘れられない記憶として、今も思い出します。
育った家庭は殆ど無宗教との感じでしたが、ある時期、日本の神事とか、言霊とか、音を用いたり、なにか精神を主体に観る世界を見聞した時期がありました。だいぶ成人を過ぎてからでしたが、日本人が多く親しんでいるところを、初めて知りました。自分でやってみても、まったく、たとえば霊が見えるとか、過去や未来が見えるとかの能力は育ちませんでした。腹の底から声を出すことは好きでした。踊ることもすきだったけれど、振り付けを覚えられませんでした。
聖書はubik0101さんに出会ってからすこし。仏教書もまったく読みませんでしたが、書かれたものがどこまで仏陀のものかは知りませんが、機会があって目を通すと、あれ、同じことを言ってる、と思うことがあります。
自己とは、ある意味シビアなところがあるけれども、人がただそれであり、比喩ですが、それまでの自分がそれに根差すための支えとして、人は、さまざまな事柄を用いて、自身を助けるのではと思います。
No.2973 - 2010/12/04(Sat) 23:57:57
☆
Re: ガチャピンとムック
/ ルー
引用
> ルーさんは、本当に敬虔にお祈りするのでは、と思います。
「敬虔」という言葉を聞いてビックリしてしまいました(笑
幼稚園の頃ですから、ただ素直だったんでしょうね。
神様のお話を聞いて、神の存在を否定するほどの経験も持っていなかったのでしょう。
まぁ、幼稚園の時に神様の話を聞いて、同じようにお祈りをしていても、全員が皆、私と同じように浸透したとは限らないので、私の霊が神を受け入れるのにピッタリだったんでしょうね。
もし、幼稚園が仏教であって、仏教の話を聞いて育ったとしたら、また違っていたかも知れません。
キリスト教は、自分自身を見る目について、厳しいところがあるように思います。
そこで「批判の目」というものが生まれるでしょう。
その批判の目は、「悪を叩く」ためにあるのではなくて、自分自身が向上するためにあるのだと思っています。
ですから、その「批判の目」は他人に対して向けるのではなくて、自分自身の行いを見つめるためにあるのだと思います。
それを、「批判の目」を他人に対してだけ向けて、自分には「許す」という態度をとっていたら、恐ろしいことになりますね。
それが、キリスト教の悪用というものだと思います。
No.2975 - 2010/12/06(Mon) 13:10:41
☆
Re: ガチャピンとムック
/ hato
引用
> キリスト教は、自分自身を見る目について、厳しいところがあるように思います。
自己の、ある種、人を超えた無機質な厳格さは、聖書の時代背景、様式、その言葉に顕れていると思います。
> そこで「批判の目」というものが生まれるでしょう。
>
> その批判の目は、「悪を叩く」ためにあるのではなくて、自分自身が向上するためにあるのだと思っています。
混乱なく、自他その区別なく。混乱なく、さらに、区別あるところをそれとして明晰に見るまでに、人は何十年かをかけ、または生涯をかけて、理解していくものかも知れません。
あるいは、この世界が、それ自身は変化に属せず、人を変化させることが腑に落ちるとき、世界の不可思議は、その謎の意味でもあります。
不思議ということ。言葉は起きてきながら、責任持って述べるとき、紛れもなく自分の言葉といえますが、不思議、とどこかで見聞きするとき、それはふいに嬉しい。
聖書、仏陀の言葉なら尚のこと、まぎれもなく、それから引き出されてることを、見ることができるからです。
老猫のため心配しましたが、一週間かけてナナの風邪が治りました。庭の姫イワダレ草の上の、ナナです。
No.2978 - 2010/12/07(Tue) 22:58:21