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記事No.2986に関するスレッドです

(No Subject) / peer
>なにか辛い生活をしながらも自分を、、、、
>嘘の本音を捏造することもありそうです。


対世間に対して、ですね。
対世間に対しては、どんなことだって捏造するでしょう。
でも、自分に対しては、捏造出来ないですね。
その件については、どうやっても嘘だと知ってますから。

そうなると、何が辛いって、生活そのものではなく、
ひとかどの人と思っていたいことが、辛いんじゃないでしょうか。

朝起きて、さあ、何かをするぞ。と思うのも本音だし
温かい布団のなかで、ぬくぬくしたい、も本音。も、あるかなぁ
たぶん、前者は脳みその機能。
後者は、肉体の反応。ということは、ないかしら?

> 仕事を変わりたいなら、たとえば「ぬくぬくしていたい」ではなく、
> 仕事を変わりたいと思考するだけです。


仕事を●●の反応かどうかは、体に聴いてみる、として。
●●へ行きたくない・・・朝起きたら風邪で頭が痛い。腰が痛いとなる。

で、腰が痛い。という人に「なにか、したくないこと、ありません?」
と聞いてみたら、心当たりがあるようで。
「そうか、アレをしたくないんだ」と気づいたとたん
腰の痛みがスーーッと抜けていた。
ということも、あるです。不思議ですが。

>どんなことも人との関係も、仕事も、隠し事がないという意味で、
>プライベートです。


隠し事がない・・・我を垂れ流しする。
というのは、ちょっと勘弁して欲しい・・・かも。
まっ。わたしの例は、覚醒した人の話ではないので、
すみません〜

No.2984 - 2010/12/10(Fri) 03:42:10

Re: / あちこち
>>あさ、布団の中で、さっと起きて何かがしたい感じがする。
>>ぬくぬくと寝ていたい感じもする。


>>どちらが素直な気持ちだろう。

>>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

>>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?


>いいえ。


いいえと答えたものの、話がずれすぎていて、どこまで戻ってどこから話すか、説明しようとするところには進まないで、素直な気持ちとして、困ったなという気持ちを持ったということ。
そしてさらに少し進んで、気持ちは変化し、これを検討しようか、どうしようかと思った。
そして、気持ちは次々に起きるできごとに応じて、次々に変化します。
数日経って、新たな問いかけもあり、いま、質問を見直すと、どんな気持ちでしょう、そしてどんな行動が生じるのでしょう?

新たな問いかけがありますが、ある時点で、本音が(タテマエでもいいですが)(それ以外の何かでもいいですが)二つあるというだけなのかなあ、そしてどう変化するのだろう、と途中では聞いています。

No.2985 - 2010/12/10(Fri) 08:39:18

Re: / ubik0101
peerさん

そ、言えば。子供の頃に見たTVドラマで「自分のことは自分がよく解る」という病人の言葉を聞いて、うん、そうだ、そうだ。と思ったことがありました。でも、そんな気持で生活してみると、どうも違いました。

まあ、ほかの人の嘘が事実に思える。ほかの人の事実が嘘に思える。自分の嘘が、ほかの人には事実。自分の事実が、ほかの人には嘘。それは嘘だと解らなければ事実なので、事実、も疑う。とか・・・ころころ態度を変える人もいて、混乱があって、それで、どうも怪しい、と思ったのかもしれません。 嘘と知って嘘を言う、事実と信じて言うことが実は嘘・・・確信犯・・・ということもありそうです。

ふつうにも、誰もが嘘と自覚できないから、嘘を言ってない、とみなしてしまうこともありそうです。たとえば自分の感覚に、感情に、自分の思考に依存していながら・・・それを素直なこととして・・・なにか行動、発言、思考するなら・・・なにかの行動、発言、思考はできますが・・・それは倒錯で・・・それは嘘って、こともありそうです。

たとえば自己顕示欲が強い人が、なんだかんだ行動してるとして、自分の自己顕示欲に気がついてないことも。また、そ、勝手に空想する、誰かがいるというだけのことかもしれません。自我って、そう現れることもあるようです。どうであれ、自我は、そんな自分に自分が切り込むことことができるので、それを使わない手はないようです。

ところで。たとえば「さっさと起きてなにかしたい」と「ぬくぬくしていたい」とかの、違う気持が、まったく同時、に起こるのでしょうか?たぶん、ぬくぬくしていながら 「さっさと起きてなにかしたい」とか。さっさと起きてなにかしながら、「ぬくぬくしていたい」。あるいは、どっちつかず、ぐずぐず、なのではないでしょうか?ならば、世界の継続、に依存してるのかもしれません。

そんな嫌だなー、という気持が気分や体調に現れる・・・そ、言えば。よくジンマシンが、腕に発生する上司がいました。ある日、給湯室で、歯磨き粉を腕に塗り込みながら言いました。「これは自分で、プラシーボ(偽薬)だと解ってるんだけど、効果があるんだ」 。うーん、でした。聖痕、とかもあるようです。

ほかの人が仕事をするわけではないし、ほかの人が社会生活をするわけではないし、プライベートでしかないのではないでしょうか。そ、いえば。むかし「あなたは世間様ですか?」と聞いて、はい、と答える人はいないだろう。つまり世間様は空想、と思ったのですが、いいえ、と言いながらも空想に生きてることもありそうに思います。と、そんなことをいくら見ても、それは始めも終わりもない観察ではなく、始めも終わりもない迷いに思います。

まだ小さいですが、春菊、順調です。

No.2986 - 2010/12/10(Fri) 14:05:02

Re: / ubik0101
あちこちさん

>そしてさらに少し進んで、気持ちは変化し、これを検討しようか、どうしようかと思った。

もう言い得ることは言ってるので、さらに検討しようとは思わなかったです。。ただ、この件についての返信があれば、そこで、なにかの気持が起こるでしょう。

つまり、なにか新展開があれば、その反応として・・・なにかの気持、たとえば《困った、な》が、ほかの気持に変化するのではなく・・・なんだかの気持、たとえば《ふむふむ》が新たに生起します。

などということは、ほかの誰かのことを観察しても空想だし、ubik0101の気持を、ubik0101が検討しますか?でした。それで、なにかの気持が、ほかの気持に変化すると感じるのは。なんだかの連続性というか同一性があるということでしょう。

それは人が、ことさら求めなくても、そうでしょう。ことさら求めると、意識による対象化で・・・たとえば自分は自分だとか思うなら、自分が自分だということが・・・強調され濃くなるようなことでしょう。

それでは気持の不連続に気がつきにくいので、たとえば慈しみから憎しみに連続して変化してるように感じるのではないでしょうか。 そうでもなければ、なにかの気持も起こったとしても、ふつうは、すぐに消える、忘れてしまいます。

それは自分で奮い起こさなければ・・・それでも間歇的であり・・・それも、なんだの、ことさらに意識するまでもない連続性、同一性が機能してるのでしょうし・・・持続できないのではないでしょうか。

青梗菜の新芽です。

No.2987 - 2010/12/10(Fri) 19:30:45

Re: / あちこち
>>違います。

この違いの大きさ、どこに戻るかという問題。そして、

>>《困った、な》・・・というのが、ここでの素直な気持ちです。で、これを検討しますか?

> もう言い得ることは言ってるので、さらに検討しようとは思わなかったです。

なるほど。
このふたつの検討したい気持ち、そして検討しようと思わない気持ちは、気持ちの違いというより、意味が少し違うのですね。

>ただ、この件についての返信があれば、そこで、なにかの気持が起こるでしょう。

それで、私の問いとご自身で起きていることが合わさって、そこから、いろいろ、思いが生じ、気持ちが生じて、検討してくださっているのですね。

No.2988 - 2010/12/10(Fri) 20:48:48

Re: / ubik0101
たしかに、ほかの人との対話は、自分のことを検討するための力になります。
No.2989 - 2010/12/10(Fri) 21:22:16

Re: / peer
サルから進化した人間。
どうして進化したか。確定したモノはありませんが。
他人がなにを考えているか、感じているか。
それを、推測したり、求められる前に行動する
という人間らしさを、獲得せねばならない
という必要があって、進化した・・・のかな〜と。

だから〜力で物事を押し通そうとするのは
サルのまま。ってことになるのでしょう。。か。

No.2990 - 2010/12/11(Sat) 02:32:31

Re: / peer
>ある時点で、本音が(タテマエでもいいですが)
>(それ以外の何かでもいいですが)二つあるというだけ
>なのかなあ、そしてどう変化するのだろう、
>と途中では聞いています。


あちこちさん。こんばんは。

本当は想念は二つどころじゃないのかも、と思います。
わたしらは、生きて関わって来た人間たちを
取り込んでます。その人たちは、様々な考え・思い
が、あるんだよ。と教えてくれました。
「●●を、どうしよう」と考えた時
あの人ならどうするだろう。この人だったら。
そんなふうなことも、ありますね。
こんなこともあった。あんなこともあった・・

その最たるものは両親・兄弟。
わたしの中には、確実に、みんな、存在してるわ。
それを考えると、オリジナルなんて、あるのかな。
とも思ったり。

PS)
ubik0101さんとの検討に横入シチャイマシタガ。。。
どうぞ・・・。続けてね。

No.2991 - 2010/12/11(Sat) 02:55:56

Re: / あちこち
>>で、これを検討しますか?

これは疑問は生じている、思考はそこで止み、保留があるということですね。

>つまり、なにか新展開があれば、その反応として・・・

これは説明ですが、
具体的には、行動として生じているのは、思考が止んでいるということで、何かの観察があるだけということでしょうか。
それによって行動や気持ちは自然に生じてくるというような。


寝床の中で、行動が、すっと生じていないとき、葛藤はないけれども、何か保留があり、思考は止み、何かの観察があるだけというのと似ているのでしょうか?
ひょっとしたら、カゼの引きかけみたいな身体のだるさみたいなものが感じとして新たに生じてくるとか。

No.2992 - 2010/12/11(Sat) 07:21:34

Re: / ubik0101
peerさん

ま、捏造でしょうが 、レミングは一匹が崖から海に飛び落ちると、つられて集団CENSOREDすると言われています。

そうでなく、なにを行動するか、考えてるか、感じてるかの・・・その自分・・・主体の発生の、ための人です。

No.2994 - 2010/12/11(Sat) 13:17:03

Re: / ubik0101
あちこちさん

し、しまった。よく見たら、このまえ植えた苗は、スナップエンドウではなくて、空豆だった。ちょっと遅いけど、新しい畝をつくって、種を蒔こう。

そんな日常。たとえば、東京にいて、サラリーマンやってても、九州でビル掃除やってても、なんて空想の余地なく、そう、です。これで過不足ない、です。

で、ここでは選択とか無選択とか、葛藤とか軋轢とかには、問題は向きません。そこから、たとえば。この世界って、なんだろう。どう、ある、ない、は機能するんだろう。に向かうのです。

と、いうのも、もし、仮に、たとえば、日本のどこかで、また地球のどこかで、なにをやっていたって・・・それは無問題で・・・この日常の神秘が研究の課題になるのです。

すでに、それ、に触れた、なった、とも言えるので、どんな哲学によらず宗教によらず瞑想によらず、ただ世界を見ることによって。もっと正確には・・・自分に浸透してる、自分と繋がってる・・・これ、を見ることによって。

と、いうことで、つるなしえんどう、の種を買ってきました。青色にコーティングされています。

No.2995 - 2010/12/11(Sat) 13:18:12

Re: / ubik0101
たとえば電車に乗ってれば、野が、山が、川が知覚され、後ろに去っていきます。そして、たとえば、思考、それも知覚されるだけのことです。

なにか思考してるなら、眼、は鳥や樹を見てても、それは見てるとは意識されず、思考、を見てるだけではないでしょうか。で、眼を閉じても思考は見えるでしょう。思考は知覚です。

なぜ、その知覚、たとえば野の花や空の鳥ではなく、思考の有無が気になるのでしょう。もしかして、思考への依存、が気になるだけのことではないでしょうか。その問題の根は、思考の有無にはありません。

なにかの知覚されること、たとえば家や絵画や音楽や、思考を対象にして、それに依存して、派生する、仮の中心。それを、自分、だと思い誤ることにあります。思考に問題はありません。

ただ、たとえば家や車や、それを持ったり持たなかったりする・・・とくに・・・ない、ことも範疇にできる・・・思考・・・に依存することを背景に人は、自分が自分を感じ、たとえば力で物事を押し通そうとするだけ、なんです。

そのことは、そのことが、その人に、仮の中心がつくられてるよ。依存してるよ。倒錯してるよ。と、親密に教えてることでもあります。なぜ、それを始めから拒むのでしょう。

それから、どうして学ばないのでしょう。学ばないことも、仮の中心、自我の機能、ではないでしょうか。なぜ、その自分を学ばないのでしょう。

No.2998 - 2010/12/12(Sun) 09:10:25

Re: / あちこち
>で、これを検討しますか?

>さらに検討しようとは思わなかったです。

これは違う二つの思いであり、そこから、自分を学ぶのだということでしょうか?

No.2999 - 2010/12/12(Sun) 10:26:47

Re: / ubik0101
(a)《困った、な》という気持を「検討しますか?」ということ・・・それは思考の不連続を話すことに繋がることです。(b)「検討しようとは思わなかった 」ということ・・・それまで話した思考の依存性と独立性は充分に言ってることです。この(a)(b)の比較ができるのでしょうか。

それが思考の不連続なら、あまりに遠いけど、まあ思考の不連続です。それは世界の継続を見せてくれます。それは世界の機能を学んでいるのです。こんなことは、仮の中心、つまり自我には、見えにくいし、見てもあんまり意味がないでしょう。それよりも、まず、自我は虚構と体験して、それを解決するのが先決ではないでしょうか。

なんであれ、仮の中心が自分として機能してるなら、それが行動、発言、思考に、あるいは軋轢として、あるいは葛藤として現れます。また現れないことがあります。それは、自覚できることであり、また、自覚できないことです。そんな暮らしは、ただ暮らしだけではなく、それを学ぶことにしかなりません。自我が自我を学ぶ、その臨界まで学ぶ、です。

とくに日常に問題も見つからないなら、虚空から掴み取るように。自分の、世界の、深い淵から、苦悶するように、問題を掴み取るの、です。それは、意識に現れない、つまり自覚できない、行動、発言、思考に現れない自我も学ぶ、ことにもなります。

No.3000 - 2010/12/12(Sun) 14:00:05