不可思議。それ、とは、文字通り、それ以上でも以下でもない、それです。 世界の外や中、上や下、そのようにありません。人によって違うものでもありません。尚、とある権威に無関係。不自由に無関係。信じることにも、無関係です。 総てに浸透する、否。総てを排除しない、否。いまここ、否。それである実在、諾。
それは世界を超えている、との理解。おそらくとても、困難ではないでしょうか。なぜなら人は、世界を生きるものであるからです。
道標はことごとく否定されざるを得ないのであり、変わらないものとは、世界と思われる世界、でなく、ただ眼耳鼻舌身意、自己と世界の仕組み、機能です。
自身と世界の有無とは、どちらでもあり・・・どちらでもない・・・どうとも表現不可能、それだけです。ここで初めて、世界は偏見に満ちた否定に晒されることがなくなります。人は、仕組みを仕組み、愛は、愛。であることを見ます。
偏りを超え、その、わたくし、であることは、世界と自己の仕組みは仕組みとして、確かに不可分なく成立していることの了解です。意味は過剰にありません。ここで再び逆に戻り、それを世界に照らし合わせる堂々巡りは起こりません。不可逆。それは、それ、として成立しています。物事を追って関係付けるのは、世界の、ことさら自我の作用であることが理解されます。
人は不可知への飛躍を、人生に於いて「経験」することで第一義が通ります。それは体験です。「自己」を見ることが起きるとは、それまでの日常をまったく超越する、体験であり、経験です。そして、理解する過程があります。過程は過程として、ことさら消し去られることなく、着色せず生きるとは、人が自己で在ることの経緯です。人は、嘘をとくことができません。
幸いとは、それは人に起こるものでありながら、起こすものでもあることです。
11月の終わりに、近くの水辺に、きれいな水草をみつけました。冬はメダカ鉢のホテイ草が枯れるので、嬉しい発見です。葉上に、朝露がまるく乗っていました。
![]() |
No.3023 - 2010/12/14(Tue) 12:39:20
|