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記事No.3084に関するスレッドです

(No Subject) / suho
ウビさん、こんにちは。

世界、現象、運動の特質が「葛藤」そのものと仮定すると、今の世界のありよう、日常が全て説明できそうです。。
調和感、平安感という知覚は、純粋葛藤の香りと感じますが、ウビさんはどう感じられますか?

うちの息子が、まだ3歳のころ、
『パパ知ってる?スーパーで買い物してる人は実は自分で買い物してないんだよ。うしろに良い神様と悪い神様がいて喧嘩しながらどれを買うか決めてるんだよ』
と言っていたことが今になって理解できる感じがあります。

No.3029 - 2010/12/15(Wed) 12:49:05

Re: / ubik0101
まず葛藤なんですが、自分との、世界との、分離、ということは派生的なことで。その根には、人が自分を自分で確認したいという衝動があるように思います。それが、世界、現象、運動、の意味とも捉えられるかな。と思いました。

それで自ら起こす騒動に巻き込まれることによって、その興奮で、生きてる感じ・・・そこで自分で自分を自覚できると思い違いしてるのではないでしょうか。そんな争い興奮は、分離、によって起きるとして認識されもする、のではないでしょうか。

それで、みんなひとつなんだから、仲良くやろうね。という方向、姿勢も生まれるのでしょう。でも、それは、なかなか困難に思います。とりあえずかも知れませんが、どうも無理があり、解決に導かないように思います。

そうでなく。その根。自分が自分を自覚したいという衝動の解決が、分離だろうが、ひとつだろうが、関係なしに、つまりこの、ふつうの日常で調和感、平和感をもたらせるのではないでしょうか。

それで、自分が自分を自覚する衝動の必要が解決されたら、キルケゴールの言葉ですが・・・もう元の意味は忘れましたが・・・単独者・・・です。

それは、見方によっては分離のまま、孤独のまま、ことさらではない幸せ感に満ちて。それは「純粋葛藤」とも呼べそう、とは思いました。また、たとえば怒りになりきったら・・・そうでなくても、そうなんですが・・・怒りは持続できなくなる、ということもありそうです。

また、たとえば総ての光の色を重ねると透明になるように、 総ての意味を孕んで、それゆえ世界は無意味。なにかの色つまり、なにかの意味に執着しなくなったら、無意味、透明になることにも関係するかもしれません。とも思いました。

No.3033 - 2010/12/15(Wed) 16:23:42

Re: / suho
> まず葛藤なんですが、自分との、世界との、分離、ということは派生的なことで。その根には、人が自分を自分で確認したいという衝動があるように思います。それが、世界、現象、運動、の意味とも捉えられるかな。と思いました。

はい。未知が未知を確認したいという衝動とも同じかなと感じます。

> それで、みんなひとつなんだから、仲良くやろうね。という方向、姿勢も生まれるのでしょう。でも、それは、なかなか困難に思います。とりあえずかも知れませんが、どうも無理があり、解決に導かないように思います。

はい。まさにそれは無理と思います。
今の社会のありよう、運動が、素直にそれであるように感じます。

> そうでなく。その根。自分が自分を自覚したいという衝動の解決が、分離だろうが、ひとつだろうが、関係なしに、つまりこの、ふつうの日常で調和感、平和感をもたらせるのではないでしょうか。

未知の本質は「調和」なのかもしれませんが、現象は「運動」として顕れています。
一見、調和的な様相ですが、核融合による星の誕生、消滅があり、自然界の動植物でも様々な個体どうしの争い・変質(進化)があり、天候もさまざまに変化します。当然人間の活動も。この「運動」は止むことがなく、ある意味、常に「現象の変化」を促進している力と感じます。
人間は、本能的に調和を求め、苦を避けるようにできていますが、この性質自体が葛藤をを生じさせる基本プログラムであり、変化を推進するエネルギーを生みだしているようにも感じます。簡単に言えば現象の2元性でしょうか。
未知が未知を確認する条件が2元性のように感じます。

> それで、自分が自分を自覚する衝動の必要が解決されたら、キルケゴールの言葉ですが・・・もう元の意味は忘れましたが・・・単独者・・・です。
> それは、見方によっては分離のまま、孤独のまま、ことさらではない幸せ感に満ちて。それは「純粋葛藤」とも呼べそう、とは思いました。また、たとえば怒りになりきったら・・・そうでなくても、そうなんですが・・・怒りは持続できなくなる、ということもありそうです。


はい。単独者へ変質する人間もいますが、一方で、その反対の、欲望、混乱等、意識が収縮(錯覚)する方向へ変質する人間もいます。拡大と収縮の運動。
どうも人類全体で覚醒に向かう感じがしない。その両極の人間のエネルギーがまた全体的な葛藤のエネルギーを高めているように感じます。(それは、両種の人間個々が意識されるものではなく、全体のエネルギー運動として)

> また、たとえば総ての光の色を重ねると透明になるように、 総ての意味を孕んで、それゆえ世界は無意味。なにかの色つまり、なにかの意味に執着しなくなったら、無意味、透明になることにも関係するかもしれません。とも思いました。

葛藤は、それ自体が変質のプロセスであり、創造のプロセスとも言えそうで、全体的な葛藤が、純粋化、ピーク化すると、今の現象・宇宙のありよう自体が根本的に新しいものに変質するのではないか、という感じです。未知が未知の新しいポテンシャルを確認するために。
そのピーク点で「透明(無)」を経過するのかもしれません。
人間個体としての感覚は苦ですが、未知は創造の喜びに溢れているかもしれない。。
という妄想が湧きましたので、つい書いてしまいました。
ちょっとウビさんと関心の先が違うような気もしてきました。

<追記>
別の記事で盛り上がっているようですので、こちらのレスは気が向いたら、あるいはノーレスで全然構いませんです。

No.3036 - 2010/12/15(Wed) 18:42:28

Re: / ubik0101
なんだか楽しく話ができそうですが・・・もしかしてsuhoさんは、世界の総活動に関心があるのかな、と思いました。
No.3040 - 2010/12/15(Wed) 19:27:34

Re: / ubik0101
なにか対象を、ことさら対象化しなくなると・・・つまり、その対象にしてる主体、自分が自分を自覚しようとする必要がないと・・・あらとあらゆる・・・ただ知覚すること知覚されることが・・・つまり一切が・・・未知と感じられるようになります。

それで知覚されること・・・世界、現象、運動・・・は、未知なので、なにかそのほかに、未知があるというわけではないようです。たとえば身体とか知覚とか怒りとか不安、思考も、未知です。

すると疑問としては、これが、どうして、これなのか?と、なるでしょう。簡単に言えば、なぜ知覚は知覚なのか?なぜ怒りは怒りなのか?なぜ喜びは喜びなのか?ということではないでしょうか。

それをなにか、とある、ものこと、として・・・たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったと仮定して探る。と、二元性、相対とか、時間を要素に勘定すると因果とかによって、それは可能になってると、思えるようです。

それはそうで、二元性とか、相対とか、因果とかいうことは、たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったとして仮定して、原因とかを探る。ということだからです。

たとえば葛藤とか、軋轢とか、苦痛とかも・・・わたしは誰?・・・も、そのように、それを世界から仮に切り取ったとして、その原因を探ろうとする運動とも言えるでしょう。

それで、なにか分裂しても、もの、ことに集中して思考すること、 自我の機能は、素直、と同様な、獲得される特質、属性になります。そして、また切り取る背後の、切り取れない、も未知と呼べます。

ところで。なぜこれはこれなのか?という、それが自発的な疑問なら・・・たとえば意識って何?・・・そのことは、意識が機能していながら、意識に依存しない・・・という、疑問の形を借りた、表明ではないでしょうか。

と、いうのは実際に、意識を知らないので、意識って何?なのです。それまでは、知らないと言うことも知らないで・・・知ったということもないくらい知ったつもりで・・・なんか思考したりしてたかもしれません。

つまり、意識って何?とは、意識が、未知、ということです。それで、知ってるとしてしか、それに依存できない、つまり意識に依存できないことの表明が、意識って何?です。

このように、ぐるぐる思考が巡って、結局。一切が、未知。ということのようです。ある、ない、もそのようなことの一環です。

それで、そいうことも忘れた日常。未知も忘れたところに、います。そこで、世界には、その世界に生きていながら、この世界に依存できない・・・仏教では、解脱、と呼ぶようですが・・・そうできる機能が働いてて、それは簡単には・・・それが解らないからそうだ、と言えるのですが・・・なお、その機能は、何か?を明確にすることに、関心があります。

No.3079 - 2010/12/19(Sun) 09:33:47

Re: / suho
> なにか対象を、ことさら対象化しなくなると・・・つまり、その対象にしてる主体、自分が自分を自覚しようとする必要がないと・・・あらとあらゆる・・・ただ知覚すること知覚されることが・・・つまり一切が・・・未知と感じられるようになります。

根源は未知であるけれど、知った風に、安心して生きていられる感覚に同化していると、根源の未知は忘れてしまう。
しかし、何か(未知)の催しで、いろいろと現象を探索し始めると、この現象のしくみそれ自体が全て心地よい謎になってきます。
確かウビさんも対象と知覚がなぜ単独なのか?という疑問を書かれていたと記憶してますが、これが確かに全く持って不思議です。つーか対象の様相がなぜこうであるのか、ということも全く持って不思議です。
だから、全部不思議ですね。

> それで知覚されること・・・世界、現象、運動・・・は、未知なので、なにかそのほかに、未知があるというわけではないようです。たとえば身体とか知覚とか怒りとか不安、思考も、未知です。

はい。

> すると疑問としては、これが、どうして、これなのか?と、なるでしょう。簡単に言えば、なぜ知覚は知覚なのか?なぜ怒りは怒りなのか?なぜ喜びは喜びなのか?ということではないでしょうか。

はい。

> それをなにか、とある、ものこと、として・・・たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったと仮定して探る。と、二元性、相対とか、時間を要素に勘定すると因果とかによって、それは可能になってると、思えるようです。

はい。
そのようなストーリーは立てやすい。

> ところで。なぜこれはこれなのか?という、それが自発的な疑問なら・・・たとえば意識って何?・・・そのことは、意識が機能していながら、意識に依存しない・・・という、疑問の形を借りた、表明ではないでしょうか。
> と、いうのは実際に、意識を知らないので、意識って何?なのです。それまでは、知らないと言うことも知らないで・・・知ったということもないくらい知ったつもりで・・・なんか思考したりしてたかもしれません。
> つまり、意識って何?とは、意識が、未知、ということです。それで、知ってるとしてしか、それに依存できない、つまり意識に依存できないことの表明が、意識って何?です。


うーんと。まず確かに意識は未知です。
suhoは、この知覚の変化のプロセスを「意識」と呼んでますが、それがなぜこうであるのかは、全く未知です。
最近思うのは、現象と知覚は単独でありながら依存関係にないのは、実は次元が違うのでは?ということです。
2次元(平面)を2次元として認識するには3次元(立体)から認識する必要があるように、現象を現象として認識するにはもうひとつ上の次元に意識(知覚)があるように。。
つっても、それだけで、その後思考は進まないですが。。
(あれ?これ前にウビさんに言ったことあるかなぁ。。)

> このように、ぐるぐる思考が巡って、結局。一切が、未知。ということのようです。ある、ない、もそのようなことの一環です。

はい。まさにぐるぐる。

> それで、そいうことも忘れた日常。未知も忘れたところに、います。そこで、世界には、その世界に生きていながら、この世界に依存できない・・・仏教では、解脱、と呼ぶようですが・・・そうできる機能が働いてて、それは簡単には・・・それが解らないからそうだ、と言えるのです

そうですか。
僕は未知がなんであるかを、じぇんじぇん忘れられない。。

>が・・・なお、その機能は、何か?を明確にすることに、関心があります。

そうなんですよね。関心が止まない。。
未知が未知であることは承知の上で、最近は知覚・認知科学とか、量子力学とかがかなり進んでいるみたいですから、そのあたりをうろうろし始めています。。

今のところ、現象・人間がなぜこのようであるかの仮説は。。

------------------------
現象は【未知】による進化・創造システムである。
人間は【未知】による、進化・創造システムの1つの現象機能であり、思い、考え、制御し、行為する個々の主体ではない。
人間の知覚は【未知】の限定的知覚であり
人間の精神は【未知】の限定的精神であり
人間の行為は【未知】の限定的行為であり
人間個々の人生とは
現象の無限なるコントラストを構成・推進する部分プロセスである。
------------------------

まあ空想でーす。
宗教とか、精神世界では、人間全てが、悟り、覚醒する方向へ進んでいて、それぞれのレベルがあるように言われていることが多いですが、僕的にはそこにとても違和感がある。
人の精神や意識変化のありようも、身体や気質に個性があるのと同じように、現象の創造・進化を構成する個々の個性であり、コントラストであるような気がしてならない。。
今のところこのようなまなざしで現象を眺めて楽しんでいますが、飽きたら、いじったり別の空想を考えてしまうのでしょう(笑

No.3081 - 2010/12/19(Sun) 16:26:06

Re: / ubik0101
それで。このように世界は機能してる。それが真理だとしたら、真理を思考できるようになってる、この世界、とんでもない・・・と思う今日この頃です。

> そのようなストーリーは立てやすい。

それを日常意識は・・・因果とか、業とか・・・なんか物語として空想してしまうのかも知れません。まったく違うのに・・・ それを、ここでは中道とか、世界の総活動と呼んでます。

>対象と知覚がなぜ単独なのか?

これは記憶にないです。でも、対象と意識が、同じでもない、違うでもない、ということなら、それは中道、世界の総活動のことです。これに触れるから、日常が、未知、なのです。

それで、なにかを世界から切り取ったと仮定しないと、なにもかも忘れてるのです。これが、ちょっと面白いです。「催し」と日常を区別しないのです。

>最近思うのは、現象と知覚は単独でありながら依存関係にないのは、実は次元が違うのでは?ということです。

ふつう依存関係というと、原因が結果になり・・・という緯(よこいと)系なんでしょうが、次元が違うということは、もしかして、経(たていと)系の依存関係が視野にあるのかな?と思いました。それは進化の、それとも言えます。

No.3084 - 2010/12/20(Mon) 08:11:26

Re: / ubik0101
なんでも人の食べ物はトライするのですが、二羽とも味噌汁が好物になりました。
No.3085 - 2010/12/20(Mon) 08:16:33