すこし振り返ります。自己が、自己であって、自己を知覚する必要がない、この日常では。おなじように自我も、知覚にとって、ない、です。ここで機能してるのは、眼や耳と、とその対象。そして意識と、その対象だけ、仏陀の言う「一切(いっさい)」です。
これは自我もなければ無我もなく、どいうわけか、そう意識するまでもなく、また意識しても、とくに変わりませんが、とくに理由がない楽・・・平穏・・・です。ここで、たとえば、いわゆる心理的思考、葛藤によって波風を起こして、その騒がしさで、自分で自分を知覚しようとすることが、自我の機能、だということが理解されます。
そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。
なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。
続きます。
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No.3116 - 2010/12/26(Sun) 21:53:41
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