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記事No.3123に関するスレッドです

世界の機能パート5 / ubik0101
すこし振り返ります。自己が、自己であって、自己を知覚する必要がない、この日常では。おなじように自我も、知覚にとって、ない、です。ここで機能してるのは、眼や耳と、とその対象。そして意識と、その対象だけ、仏陀の言う「一切(いっさい)」です。

これは自我もなければ無我もなく、どいうわけか、そう意識するまでもなく、また意識しても、とくに変わりませんが、とくに理由がない楽・・・平穏・・・です。ここで、たとえば、いわゆる心理的思考、葛藤によって波風を起こして、その騒がしさで、自分で自分を知覚しようとすることが、自我の機能、だということが理解されます。

そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

続きます。

No.3116 - 2010/12/26(Sun) 21:53:41

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

No.3117 - 2010/12/26(Sun) 22:01:01

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

> なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。

これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

>ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

はい。ないもの(空想)の中での葛藤、混乱。

> そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?
執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。

> でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?
ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

> と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

> けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
もともとそうであったと。

> つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?

No.3118 - 2010/12/27(Mon) 13:35:06

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

そんな表現もあり、と思います。いま、ここに、実際にはない、もの、こと・・・それは、どこかには、ある、だろう、として明確に、あるいは漠然と、空想される、もの、こと、です。おそらく、そいうことは、人が自分を中心として眺めた、狭い範囲の世界・・・空想の世界・・・で可能になってるようです。

> これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

たぶん欲望は、これを獲得したら、次、あれを獲得したら、次・・・ずーと求め続けないと満たされない・・・という衝動の現れだと思います。そうしてれば、その自分を自覚できる気がするので、いつも新しい刺激が欲しいということかもしれません。

そのことは、わたしは、ある。ということが、影のように欲望として現れてるのかもしれません。そんな欲望の完成は、わたしは、ある。自我の完成は、わたしは、ない。この、あるない、どちらも知覚の範疇にはありません。ここで言う、無我は、この、あるない、どちらの意味も含みます。

> 特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?

そんな表現もあり、と思います。ただ、ここで言ってるのは単純な話です。なにか、ある、もの、ことに執着してると見なすならば・・・執着する対象が、ない、なら、執着する主体も、ない、という空想に囚われる、ということです。そんな状態なら、「空想がないから執着がない」、「執着が無いという観念に同化する 」も、可能に思えるかも知れません。でも、どちらも実際は、不可能だと思います。

それでも。たとえば・・・自分の中の・・・空想の誰かに・・・自分は無執着だと見せかけることで、それが実現されてると、思い違いすることはできるでしょう。それは欲望を自分に隠す、自分を騙すことですが、そうできた、と思って一生を過ごすことはできるかもしれません。でも、 それでは無意識の愚かな操作を要し、辛いでしょう。

続きます。

No.3121 - 2010/12/27(Mon) 21:10:57

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
>例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。


これは、自我がない、ことの体験後、あり得ます。ここでは残響のような自我とか、無我を張る、と呼んだことがあります。たとえば悟り体験そのことと、自分と。あるいは悟った自分と、そうでない人との分離をつくりだし、それに囚われてる状態です。

また、その体験で、善悪はない、ことも見て。その善悪がない・・・これは意識の範疇にないのですが・・・いつのまにか意識の範疇と思い違い・・・いわゆる思考からの善悪がないになって、倫理不要を標榜することがあります。やはり意識の範疇にないことは、意識の範疇にないと明確にすることは大切です。

> ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?

なんだかの関係に留まってる、この世界の範疇にある、という意味です。それで、依存しない、ということは、解脱、です。しかし心理的なことを言ってるのではないです。とても誤解が忍び込みそうなので、あんまり言いたくはないのですが、離脱、に近いです。

それが、自己、の意味?本性?です。 ならば、この無限とも言える質量の世界、それが陽炎のようなこと、吹けば飛ぶような幽かなこととして、感じられます。これは理論的な表現では、これは、これでなくてもいいのに、これ。これは何?です。

>ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。 なにか執着とかがあるということは。その状態に留まらさせられてるということで・・・それは、そいう自分の有り様を、良く見て、理解して、乗り越える(大雑把な言い方)ために・・・執着が機能します。そんな必要がなくなれば、滞りなく機能する、という意味です。

> 現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。けど、空想とは無関係に流れてるというのではなく・・・呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界が変わる・・・と言ったりしますが、そんな・・・それは自覚できないのですが・・・主体性が生まれています。

続きます。

No.3122 - 2010/12/27(Mon) 21:22:56

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
>もともとそうであったと。


もともと自我は、ない、かもしれませんが、その、ない、そのことを了解する。そんな自己・・・は、もともととは、とても思えません。けど、自我を通じて、の結果です。そして、自我は未完だから機能する、という意味を込めて・・・自我の完成と呼んでいます。自我の死、というのは、もともとないことが死ぬというのも表現としても変だと感じます。

>もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
>そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?


そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。 バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

No.3123 - 2010/12/27(Mon) 21:27:52

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

もしかして、ubiさんが表現する「自己」とは、精神のことを言っているのかな、と感じました。
精神、それ自体が無我であること(自性、実体がないこと)を理解しつつ、それでも精神がいまここにある、という実感のようなもの。
自己の機能である自我を通じて、自己が無我であることを知り、自己が世界であることを知り、しかも自己は自己であることを知ること。それを成長とubiさんは言っているのかなと。
このあたりは、まだ検討中です。

> そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

「ある」「ない」どちらか一方に収まらないと満足できない自我にとっては恐怖。それで「ある(確実なもの)」のみを求めて騒がしく運動する。しかしそれは事実を理解するための必然のプロセス。
確かに世界が「ある」だけではこの運動はそもそも起こらないですね。

> たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。

お!ですよね!

>バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

うう。。先を越された。。
僕も今日買ってこよーっと。

ubiさんとのやりとりで、検討が進みました。
ありがとうございました。

No.3124 - 2010/12/28(Tue) 08:13:11