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記事No.3143に関するスレッドです

好雪片々不落別處 / ubik0101
ときに、因果、という言葉を聞くことがあります。ある結果は、ある原因によって起こる、ということのようです。それは、とある、もの、こと、を世界から切り取った、と仮定して思考されてるのではないでしょうか。それは、なんとなくですが切り取られない世界を背景にしてるようです。

そのようにして、その、もの、ことの、これも切り取られたとして仮定される原因とか結果を探るなら、すでに、なにか過去未来現在という限定された時間を前提にしてるのではないでしょうか。

すると当然、それは因果が働いてると思考されるのではないでしょうか。つまりその思考する人の因果に囚われた有り様を、そのままその思考が、表現してるだけです。

そして。とある、もの、こと、を仮に世界から切り取ったとして思考すると、そのずっと過去も、ずっと未来も、つまり最初の因も最終の果も、とても不明ではないでしょうか。

それに、なんだかの結果が起こってるとして原因は実は、不確定ではないのではないでしょうか。そこで・・・まったく無関係な、もの、こと、はないのですが・・・それに乗じて、ことさら関係ないことを因と見なして、ことさら関係ないことを果と見なすことも起こるようです。

それで、切り取って思考するという、そのこと、それが成立しない、ということを示しています。すると、もしかして、その思考の逆としての、すべては切り取ることのできない繋がってる、という思考も、それだけしかないなら単なる思考であり、世界を、そのように捉えてる、捉えられてる、のかもしれません。

続きます。

いつも、こんなに寒いのですか?と聞いたら・・・16年振りの雪だった、と近所の人が話してくれました。前日まで、わさわさ、だったブロッコリーの苗の葉が、つぐみ(たぶん)の大群に食べられてしまっていました。

No.3142 - 2011/01/21(Fri) 09:15:19

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
どちらも、その思考する人の有り様を、そのまま思考が表現してるだけであり、そこには気がつかない誤りが隠れて、それに縛られてるのではないでしょうか。と、いうのは、完全に切り取られたことも、完全にひと繋がりも、どちらも極端な思考、つまり空想にあるだけです。そんな思考に依存してるのではないでしょうか。

碧巌録・第42則

厖(ほう)居士(在家の仏教修行者)が薬山禅師の寺を去るとき、薬山は十人の禅客に見送りを命じました。みんなで門前に来た時、厖居士は空に舞う雪を指して「いい雪です、ほかの所に落ちません」。と言います。

そこで全(ぜん)という禅客が「では、どこに落ちるのですか?」と尋ねます。いきなり厖居士は全禅客を平手打ちします。

「そんなに、あわてないで」と全が答えます。厖居士は「そんなことで禅客などと言っていると閻魔様が許しません」、と答えます。

「では居士ならどう答えますか」、と全が聞きます。厖居士はまた全を平手打ちして「眼は見ていても、眼が見えないと同然。口は話していても、口が利けないと同然です」と答えます。


この、ちらほら雪は風に乗って、どこと選ばず冬の空に舞って、不落です。どの雪も・・・落ちるかもしれない所は、まだ不確定で・・・どこにも落ちてないのです。どこかに落ちたとしても、ほかの所では落ちない、です。「いい雪です。ほかの所に落ちません」。それは原因にも、結果にも、切り取ることも、その逆の、ひと繋がりにも、落ちる所がない雪の風景です。

ここでなされる「どこに雪は落ちますか?」という疑問は、 しかしそれでも、雪は雪として雪です。その美しさは、その美しさです。なんでもいいのですが、怒りは、怒り、悲しみは、悲しみ、です。なにかの思考は、その思考です。 なぜ、これは、これなんですか?わたしは誰?という質問です。

続きます。

このあたり遠州では生け垣に使われる真木(まき)の木の実です。青い実と、赤い実が繋がってなります。その赤い実は食べられます。子供時代を過ごした大分では、人形実、と呼ばれていました。とても薄味の、グミのような感じです。

No.3143 - 2011/01/21(Fri) 11:20:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
この話を知った時
では、雪が発現した時に、すでに、どこに落ちるのかは決まっている。ということかな。と思って
それならば、私たちはすでに起きている人生を生きるのだろうか。とも考え。さらに
アインシュタインの「月は、観ていない時は、ないのか、あるのか」という言葉がリンクして。。

・・・話の続きを、お待ちしております。

No.3144 - 2011/01/21(Fri) 13:07:10

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

うーんと。それぞれの雪が、決まったところに落ちる。と読めるとは思ってもいませんでした。決まった所に落ちる。なら・・・感じとしては、なんとなく重く湿った、ぼた雪で・・・決まったところに落ちると言うでしょう。それで、ほかの所には落ちない、という表現には、情景としても、眼で見えてててもトレースできない、雪の舞い踊る美しさを感じました。

アインシュタインの言葉は、知りませんでした。ふつうは、たとえばテレビがある、怒りがあるなど、それが機能してて知覚されることを、ある、と言うのですが・・・その範疇にない、ある、ない、を探る言葉としても読めると感じました。

この庭の西側に、名前は知らないけど、なかなか姿のいい木が見つかりました。そうだ、これは、睡蓮鉢の日除けにしよう。というわけで、さっそく掘り起こして鉢に植えました。しばらくは物置で養生して配置します。

No.3145 - 2011/01/22(Sat) 16:40:48

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ところで。それぞれ、雪でも、見るでも、美しいでも、それが何だとしても、落ちるとしても、ほかのところには・・・それなら・・・ここという個別な所にも落ちません。ならば、とある、もの、こと、を仮に世界から切り取るにも、ひと繋がりにも、ほかの何にも、落ちない、です。

どんな対象化もせずに・・・つまり、それを対象にしてる主体がつくられず・・・因果そのこと、です。 ことさら言うなら、どこにも落ちない因果が、その人です。 ほかの言い方では、その平手打ちの、痛っ、が全、です。ほかには、なにもないです。

これが、因果を対象にしないところ、因果の概念が、ないところ、です 。それが不完全なゆえに機能してた因果の概念が、知覚される必要がなくなるところ、です。因果が因果を確認する必要がない、という意味です。もっと簡単には、因果には、因果という概念はないのです。どんな、たとえば、ありのまま、という概念も壊滅、です。

ならば始まりも、終わりも、あるもないも、ないのです。いわゆる自我も無我も、業も、輪廻も、この世界だけ、でもない、のです。でないなら、たとえば善い悪い報いを勘定する、因果の概念、閻魔様から逃れることはできません。ここで僅かでも、とあるもの、ことに意識が動くと、 この世界、このとき壊滅し、生成される、つまり因果は持続なしに持続すると見なされるようです。

また、余談ですが、因果を変えることができるのは因果だけです。これは当然のことですが、人は世界を変え続けているのですが、そうであって、そのことには、なかなか気がつかないようです。このとき、このとき、世界の進路を変えています。これに気がついて、かなり驚いた覚えがあります。

続きます。

No.3146 - 2011/01/22(Sat) 17:33:11

Re: 好雪片々不落別處 / hato

よい雪は別所に落ちず。

ここ、にも、そこ、にも、あそこ、にも。

ほかのどこかに落ちません。

その一切は、不可 思議。

尚、その雪は、ただ雪です。


そして尚、雪です。


とあるいつかの朝、小さなアパートの外は白銀に光っており、メジロがベランダの砂糖水を飲みにきていました。

No.3147 - 2011/01/22(Sat) 22:39:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
雪が見える。ということは、遠いどこかから落ちてきた。
いま、とつぜん、発生したワケでもなく。
なので、因果の法則・・・かな〜と。
地面に落ちる途中で消えるかもしれないから
どこに落ちるかは決まっているとも言えない。
・・・未来は未定。

子供の頃
雪が降ってくるのを下から眺めると
光が遮断されて薄黒いモノが、ウヨウヨとして。。
まるで虫が大量に降ってくるようで、
なんだか怖いような気がしたこともあります。

雪。といえば
「雪が解けると、どうなる?」
水になる。という人あり
春になる。という人あり。

No.3148 - 2011/01/23(Sun) 04:26:26

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

そうでした。子供の頃、初めて雪を見上げて何か感じました。うようよした、その感じだけで、世界が一杯で。なんとなく不思議に嬉しかった。それでまた雪が降ると、それを感じることを期待して見上げてみたのですが、もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

きっと、過去を変えることができるなら、因果は成立しないでしょう。でも人は、心理的には過去を作りかえて、なにかを判断したり、評価したりすることもあるのでしょう。その不完全さゆえに、そんな思考ができるのかもしれません。

そうだ、小さな丸い花壇を、庭のあちこちに、たくさん作ろう。というわけで、そのひとつに去年の秋、スノードロップの球根を植えました。つぼみが見えています。

No.3149 - 2011/01/23(Sun) 21:26:32

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ただ指を空に指すだけで、風が変わります。雪の軌跡が変わります。世界が変わります。 それは、ほかの所にも、過去にも未来にも落ちません。

なにかの原因を求めたり、それから結果を考えたりすることは、不完全な因果の概念です。壊れています。それは、因果が因果を思考するからというわけでもなく、不完全な偏った人としての因果が、そう思考するのです。ただ思考は、そのように思考する人だということを、そのまま表現します。

そうでなく、なににも偏らない因果である人は、因果を自覚せず、無選択を選択せず、過去を思わず、未来も思わず、今も思わず、 それは、見ても、眼が不自由な人のように、見るということなしに見えてる。話しても、言葉が話せない人が話すように、どんな話そうとする意図なく話してる、です。

どうして、そうなのでしょう。たとえば、ある人は満面の笑みで喜んでいます。ある人は泣き叫んでいます。ある人は、怒っています。ある人は怠惰です。ある人は、賢明です。あるいは、善で、あるいは悪で、あるいは傲慢です。

そのように世界は、あることと、反対のことも、類似のことも、無関係なことも、まんべんなく全て活動してるのではないでしょうか。そうでないときなど、ないです。それゆえどれか個別の、特定のもの、ことに偏る、依存できないのです。これを、ここでは世界の総活動、中道と呼んでいます。そして人は、その全でありながら一筋でありながら全ではないでしょうか。

もし、仮に、例えば・・・完全に切り取られたことがあるとして、また、完全にひと繋がりだとして、どうして変化が起きるでしょうか?どれでもないから、因果が可能なのではないでしょうか。どこにも、どのほかの所にも落ちない、どこにも引っ掛からない、なににも躓かない・・・雪は雪でなくてもいいのに雪・・・です。

No.3150 - 2011/01/23(Sun) 21:33:03

Re: 好雪片々不落別處 / peer
>もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

雪は雪だ。どう観ようとしても確定したことだ。
ってことかもしれないです。
いちど体験すると、そこから他へ動かない。
心は、どうも安定したがる傾向があるようで。
子供が同じことを何度も何度も体験したがるのは
同じことはない。ということを知っているからか。
あるいは次がどうなるか知っている安定が心地よいから・・・か。
わかりませんが。

原因を探りたい人は、今を受け入れないから。
今を受け入れているってことは
原因も今も結果も、一瞬で受け入れていている
それをどうもこうも、がない状態なのかな。
だって、あることに対して、確定したコトに対して
いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

No.3153 - 2011/01/24(Mon) 14:37:04

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
たしかに見上げると、空から舞い降りる雪は、それぞれの中心あたりが暗く灰色に見えたのです。でも・・・ふつうに横から見る風景の雪は白いので・・・暗く見えた、そのことが不思議な嬉しさの原因だと思って、おなじように暗く見ようとした、のです。

でも、そのように暗く見える見えないではなく、最初の、うわあ不思議、そのこと。その雪の知覚だけで、自意識のないこと・・・まあ子供の頃のことなので、わからないけど・・・それが嬉しく感じたのかもしれません。

>いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

ならば、いつでも、どこでも、そのほかの今を望むことはない・・・そんな意味で「いい雪です。ほかの所に落ちません」。も、ありそうです。

まあ、原因を探ったりすることは、これからの選択肢を探ってる・・・それと関連づけた未来の行動のシミュレーションで・・・そんな、ぐずぐずしてる状態は苦痛だけど、でも実際に行動しても失敗するかもしれないから、それよりは、楽、って取り越し苦労・・・もありそうです。

No.3156 - 2011/01/24(Mon) 21:36:42