>あのとき、ああすればよかった。《過去》。 >そうしたら、こうでは、なかった。《現在》。 >そうだとしたら、どうなるだろう。《未来》。 >そんな・・・過去、現在、未来・・・それは空想の時間旅行です。 >そのことは、自分が自分と分離してる、 >そのことが可能にしているのではないでしょうか。
《過去》こうしたら《現在》こうではなかった・・・かどうか 分かったもんじゃないのに、そんなふうに考えるんですよね。 何か、落ち着く場所を求めてのことでしょうか。 これを「反省することで未来は変わる」と観る人もいますが。 このクセがあったら、、、変わらないと思う。 終わってしまったコトは、どうとでも言えるし思えるし。 今に不満がある。それだけのことなんですから。
コトガラには、真の意味はなくて、どう解釈するか しか人には与えられていないのかも。 解釈によっては、様々に受けて採れてしまう。 因果も、その筋の話じゃないかな〜。
原因があって結果がある。も、それだけのこと。 種がなければ、根も葉も出ない。ワケです。から。 そのことに、意味づけして、浮いたり沈んだり。 自分がどんな種なのか、知らないから因を知りたがる。 ということかも知れない。
>世間話としても。ことさら関係ないこと(因)、たとえば >「天変地異やら暴動」を、ことさら「変革の時」という >(果)と関係づける、ことはないです。
これは〜因果の話とは、別のことで。 世間は無常な物で、様々に変化しております。 小さな対岸の波も、折り返して高波になることもある。 変化を、ある意味、、楽しんでいるトコロもある。
|
No.3178 - 2011/02/02(Wed) 02:32:58
|