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記事No.3273に関するスレッドです

一対一? / ubik0101
たしかに子供の頃の死の恐怖が契機になって、自分が自分と思うことを否定していく、否定の道を歩き始めたと思います。でも、恐怖が理由だとしても、それを忘れて遊んで暮らそう。あるいは一日を懸命に生きよう。あるいは哲学や宗教にすがろう。とか様々に結果は現れるかもしれません。

つまり、その原因としての契機と、その結果としての人の状態は、一対一に固定されてはいません。なので契機に人の状態の理由を求めるのは、不確実なところがあります。 けど、そもそも、どうして、自分が自分を知らないことに、気がつくのでしょうか。どうして、わたしは誰?「自分自身を知れ」を意志できるのでしょうか。

もしかして。これに答えようとして、その理由を探ると・・・結果から逆に原因を探ることになり・・・ことさら思考が一対一に対応して、それだけで実情に合わなくなってしまう可能性があります。

たとえば初めから知ってるのだけど、それを忘れてるのだ。知ろうとしなければ、知ってるのだ。もともと知りようがないのだ。とか。どうしても人の現状の解釈からの原因を探ることになり、不正確な思考になるかもしれません。また、そんな思考は、自分を「知る」、ということが既に前提になってて、それを疑わない無知の上に乗って展開されてるかもしれません。

続きます。

No.3262 - 2011/02/22(Tue) 13:08:08

Re: 一対一? / ubik0101
それで、一対一に対応してないことを探るのは、理論的には説明は困難な感じもします。なんだか、またも取り留めのない話になるかもしれません。が、このことからも見えてくることがありそうです。

たとえば自我は、世界との、自分との分離、孤立化、だと説明されることがあります。そうだとするなら、自我が解決されたら・・・その逆・・・真理は、切れ目のない、ひと繋がりの世界、ということに決着しやすいでしょう。

また自我は、騒がしい心理的な思考だ、と説明されることがあります。そうだとするなら、自我が解決されたら・・・その逆・・・そんな思考がないことが、波風の起きない平穏なことが、自我からの解放だと思われやすいでしょう。

ほとんど同様なことですが、自我は、空想の過去、未来、現在に迷ってることだ、目標が設定されてることが迷いだ、と説明されることがあります。そうだとすると、自我が解決されたら・・・その逆・・・たとえば、いまここ、知覚からの直接行動、ありのまま、時間のないこと、などが真実だと思われやすいでしょう。

続きます。

No.3263 - 2011/02/22(Tue) 13:09:40

Re: 一対一? / peer
>そもそも、どうして、自分が自分を知らないことに、気がつくのでしょうか。どうして、わたしは誰?「自分自身を知れ」を意志できるのでしょうか。

どこかで欠けてしまった。からではないでしょうか。
真実を確認しなかった、誤魔化した、ウソをついた。
そんなことの数々があり、切れ切れになっている自分を
自分では、無意識に知っているワケでして。
欠けた部分があると、知らない自分がいるという感覚になる。
欠けた所が「自信のなさ」になって。
私は誰。が生涯に取りつく・・・。

No.3266 - 2011/02/24(Thu) 04:26:08

Re: 一対一? / さらだ
「ひと繋がりの世界」
「波風の起きない平穏なこと」
「いまここ、知覚からの直接行動、ありのまま、時間のないこと」

を悟りとして否定されるのかなと思って拝読していたのですが、そういう意味でもないようです。

ただ、何かを否定した結果、それらが導き出される筋道がおかしい、とご指摘されているのかと思いました。

悟りや覚醒は「体験」なんだ、というお話かもしれません。

No.3267 - 2011/02/24(Thu) 07:33:50

Re: 一対一? / ubik0101
peerさん

たとえば白い花の椿。その知覚は、ほかの要素が混じらないで、一対一に対応してるでしょう。白い花は白い花。しかし・・・白い花だけではなくて・・・たとえば赤い花もある、桜も咲く・・・とか一対一に対応してない、ここにあることから、ここにないことに外すことのできる意識。そこに生じる迷いがあるでしょう。

けど、なにかの、たとえば隣人との出来事・関係が、軋轢・苦痛だとして、出来事・関係と、軋轢・苦痛が、一対一に対応してないから、解放がある、ということもあるでしょう。そこに学ぶことが可能になってるようです。また逆に、たとえば関係は関係、軋轢は軋轢、苦痛は苦痛だけ、一対一に対応する、それもあり、です。

それで、ともかく。あの場合は一対一に対応してる、この場合は一対一に対応してない、として思考すると言うよりも、瞬時に直感で了解する。そこでも思考停止が起こる。そこに対応してる、してないという、それまで気がつかなかった束縛からの解放が起こるようです。

No.3268 - 2011/02/24(Thu) 13:31:06

Re: 一対一? / ubik0101
さらださん

そうですね。たとえば自我も無我も自己も、なにか個別のこととして理解しては。それを掴むことに掴まれてしまい、そのことに気がつかないでいることもあります。

でも、なぜそれがそうなのか、たとえば一対一?その仕組みを自覚することで理解がより明確になる、と感じます。そのことはまた一旦は外れた体験に、この日常が接近する・・・世界の総活動、中道が目前にある、です。

6本か8本だったか、アクリルの透明な棒でできた立体パズルがあります。それぞれの棒には切り込みがあって、ほかの棒と組み合わせることができます。けど。それを、どう一対一とか、一対二とか三とか個別に組み合わせても・・・さまざま理解しても・・・パズルは完成しません。

そうでなく。あらかじめ、おおよその完成形を総てのアクリルの棒で作り、それを軽く両手に包んで、じわっと力を込めると、カチッと、音がして組み上がります。ネットで探してみたのですが、見つかりませんでしたが、そんな喩えができると思います。

No.3269 - 2011/02/24(Thu) 13:47:22

Re: 一対一? / ubik0101
続きです。

さらに自我は、人が自分で自分を自覚しようとすることだ、とも説明できます。そうだとすると、自我が解決されたら・・・その逆・・・人は、自分を自分で自覚できない、ということに落ち着きやすいでしょう。

そして自我は、世界が人にしてあげてるのに、それを人が自分でしてると思い違う、とも説明できます。たとえば「世界が自分を必要にしてる」というように現れる・・・このことは自我がない、ということの証明のようなことですが、それでもなお自我・・・とか説明できます。そうだとすると、自我が解決されたら・・・その逆・・・それは主体性の発生。あるいは受動性だ、ということに決着しやすいでしょう。

ほかにも自我については・・・ない、のに、ある、と思い違うこととか。仮の自分。無知。善悪の問題。とかがあるでしょう。そして、それぞれに対応した解釈がなされます。それは自我の解決という結果から、原因を探る思考です。(ここらあたりで、なにかを対象にして集中して思考するという自我の機能を排除するのではなく、それを使って理解しよう・・・ということを学ぶことができるかもしれません)。

No.3270 - 2011/02/24(Thu) 13:52:41

Re: 一対一? / ubik0101
続きです。

どれも、あながち誤りでもないのですが、その、どれかを個別のこととして採用するなら・・・それは一対一に固定された解釈、つまり誤解でしかないかもしれません。 どのように自我、その解放を捉えるかで、なにか世界観が生じて、それを掴むことに掴まれるかもしれません。

ならば、人の経緯としては、「思考して思考して思考しまくって」、ひとつの世界観だけに拘らないようになること。(ここらあたりでは、総ての光の色を重ねると透明になる・・・この世界は総ての意味を孕んで無意味・・・ということを学ぶことができるかもしれません)。それは、ほかの人のいう宗教や哲学に依らず、なにかを理解したら忘れて世界を見る・・・一人で正確に真摯に探求するなら、自然に推移することでもあります。

ところで、自我がない、その仕組みを見ることは重要だとしても、それはあの体験の一過程です。その世界の総活動。中道。その最中に起こる出来事です。これは思考は、なかなか届かないのですが、たとえば自我、無我、自己、を捉えることに囚われる必要がないのです。そのことは世界、つまり目前に展開されてる、です。

hatoさんと、御前崎に釣りに行ってきました。

No.3271 - 2011/02/24(Thu) 13:57:29

Re: 一対一? / ubik0101
市場では、こんな魚を売ってました。
No.3272 - 2011/02/24(Thu) 14:04:13

Re: 一対一? / hato

早春の肌寒さが残る頃、東京では、よく雪が降りました。

好雪片々不落

よい雪は、世界の何処におちるでしょう。
それはつと、瞬きながら閃いて、いずこもなく消えていき

その雪一片は、世界のただ闇に跳躍と見えつ間に音影なく

不落別處

まるで知覚や思考やこの意識の、遥か遥か未明に飛翔するものだから

もはや、意識はその焦点を失い
ただただ膨大な非知非意味に、席巻されるものかも、知れません。


ubik0101さんと、楽しみにしていたスノードロップが、咲き始めました。

No.3273 - 2011/02/24(Thu) 21:35:54

Re: 一対一? / suho
> hatoさんと、御前崎に釣りに行ってきました。

この写真見逃してました。
いいですねー。赤と青が映えてます。

御前崎は20年くらい前に仕事で行ったことがあります。
断崖沿いの風景が異国のような雰囲気で
ほえーっとトキメイタものでした。
いいところですねー。

No.3282 - 2011/02/28(Mon) 11:15:17

Re: 一対一? / hato

> この写真見逃してました。
> いいですねー。赤と青が映えてます。


suhoさんこんばんは。いつもありがとうございます。あれなんでしょうね、赤いポストみたいで印象的でした。いま自分でちょっと気に入ってるのは、土筆の2枚目の、クローズアップです。

昨晩こちらは、suhoさんの春の花画像集を見つけて、可憐な花びら、雄蕊雌蕊の繊細な・・・そのまま空に舞ってしまいそうな軽やかさを楽しんでました。


> 御前崎は20年くらい前に仕事で行ったことがあります。
> 断崖沿いの風景が異国のような雰囲気で
> ほえーっとトキメイタものでした。
> いいところですねー。


御前崎。画像は港風景ですが、本当は御前崎灯台の辺りが有名ですね。サーファーのメッカ。確かに、あの断崖景色は壮観で・・晴れた日には富士山が見えます。

灯台元の、寂れた昔風グランドホテルに寄ってみたら、入り口の水槽に、クエ(ハタ)の大きいのが一匹いました。近くの魚市場で、キンキ?(に似た魚、上品な白身に脂が乗ってとても美味です)を買って帰りました。

No.3283 - 2011/02/28(Mon) 20:35:41

Re: 一対一? / hato

それで、御前崎近辺から見た風力発電機。大きな逆扇風機です。こちらはダーリンが、走る車中から撮影しました。圧巻です。

No.3284 - 2011/02/28(Mon) 20:41:36

Re: 一対一? / suho
> suhoさんこんばんは。いつもありがとうございます。

こんばんは。

>あれなんでしょうね、赤いポストみたいで印象的でした。いま自分でちょっと気に入ってるのは、土筆の2枚目の、クローズアップです。

たおやかな感じですね。

> 昨晩こちらは、suhoさんの春の花画像集を見つけて、可憐な花びら、雄蕊雌蕊の繊細な・・・そのまま空に舞ってしまいそうな軽やかさを楽しんでました。

わーい。ありがとうございます。

> 御前崎。画像は港風景ですが、本当は御前崎灯台の辺りが有名ですね。サーファーのメッカ。確かに、あの断崖景色は壮観で・・晴れた日には富士山が見えます。

確かに壮観でしたですね。

> 灯台元の、寂れた昔風グランドホテルに寄ってみたら、入り口の水槽に、クエ(ハタ)の大きいのが一匹いました。近くの魚市場で、キンキ?(に似た魚、上品な白身に脂が乗ってとても美味です)を買って帰りました。

ほほー。いーですなー。

ウビさんの写真もまたいいですねー。
キレの良さを感じます^^
写真て、撮る人のエッセンスが顕れるのでほんと面白いです。
自分の写真はよくわからないのですけどね。

No.3285 - 2011/02/28(Mon) 21:04:56

Re: 一対一? / ubik0101&hato

suhoさんの写真は、繊細で、質感が凄っ。とくに、青い葉の光・・・花びらの・・・画素数の違いが、現れてるだけじゃないんだろうなあ〜・・と、思いました。

No.3286 - 2011/02/28(Mon) 21:37:07

Re: 一対一? / suho
>
> suhoさんの写真は、繊細で、質感が凄っ。とくに、青い葉の光・・・花びらの・・・画素数の違いが、現れてるだけじゃないんだろうなあ〜・・と、思いました。


こそばゆいかんじです。。
うーん。まだまだ試行錯誤な感じなんです。
例えば↓な写真を拝見すると

http://www.zorg.com/pub/favod?c=iimirnonsw&fm=1

棲っ棲っ棲棲棲棲〜っっ(@_@)となって、
はぁ〜、す・て・き・・ふにゃっ
となってしまいます。。

No.3287 - 2011/02/28(Mon) 22:38:33

Re: 一対一? / ubik0101
ちょいくどい続きです。

それで、なんでもいいのですが、たとえば「心理的思考、葛藤が、自我」だとします。それは、怒りなら怒りだけ、不満なら不満だけで、それだけ、という意味で一対一なら、それは葛藤、自我でさえないです。または、それに埋没してるから気がつかない自我です。

ただ「心理的思考、葛藤が自我」、というだけでは正確ではありません。というのは、自我は知覚できない・・・ただそれは日常で人の行動、発言、思考によって知覚できるようになる・・・ということを見逃してはなりません。その知覚できるようになった活動を、自我の機能と呼んでいます。

もちろん日常、そんな知覚できる活動があっても、なくても、人が自我なら、自我です。この機能が非活動の自我・・・たとえば映画や自然を見てて何の問題もなくても自我・・・も解決しなければ自我の解決ではありません。

また、心理的な思考を自我とするならば・・・ちょっと自我の機能の欠片と、それを解決した有り様の欠片を=で繋いでるという意味で一対一と見なしています。これは、とくに無我から見た、自我の、とある機能です。これに留まるなら無我を掴むことに・・・たとえば心理的な思考がないことを「よし」、として・・・掴まれてしまうかもしれません。

これは、それだけを個別のこととして・・・分離がないとか、無知がないとか、時間のないこと、受動的なこと、善悪のないこととか掴まずに・・・が総て活動してるのでなければ、思考できないことを思考によって判断することになりやすいのです。その思考は、手放すことに躊躇う必要はありません。意識から失われても、なくなることはなにもない、です。

と、いうのは、総ては世界の機能だからです。自我も、無我も、自己も・・・怒りも、喜びも、悲しみも、思考も・・・森羅万象が、世界です。それは目前にあります。そこになんの問題もないです。この見られることも見ることも、世界の総活動です。

No.3288 - 2011/03/01(Tue) 09:00:31

Re: 一対一? / ubik0101
suhoさんの紹介してくれた写真、それを撮ってる主観を排した無機質傾向?それでも個性は隠せない、なのでしょうか。suhoさんの写真は、無機質でありながら有機質で、きっと優しい性格が滲みでてるのかな?とか思いました。

そういえばもう何十年も前に、初めて勤めた広告会社で、大きくプリントされた白川議員のヒマラヤの写真を見て《ここに神がいる》て、冷たい荘厳を感じたことがあります。

No.3289 - 2011/03/01(Tue) 09:23:13

Re: 一対一? / suho
> suhoさんの紹介してくれた写真、それを撮ってる主観を排した無機質傾向?それでも個性は隠せない、なのでしょうか。

最初から「いい写真とるぞー」と意気込み満々で撮ると、いくら構図や画質が素晴しくても、固くて息苦しい雰囲気がどうあってもにじみ出てしまう。
なんにも期待せず、素直にピンときた対象を、その場に湧いている感性にぴたりとはまるよう構図・タイミングを調整して(これはほとんど無意識ですが)撮ると、素直な写真になる感じがします。撮る人によってその場に湧く感性は様々なので、同じ被写体をとっても香りに違いが出るのでしょうね。。
写真に限らず、言葉、動作など、どうあっても個性は隠せないような感じがします。
現象はいつもあからさま。。
現象一切が曇りなき主観(個性)と言えるかもしれません。

> そういえばもう何十年も前に、初めて勤めた広告会社で、大きくプリントされた白川議員のヒマラヤの写真を見て《ここに神がいる》て、冷たい荘厳を感じたことがあります。

自然はけっして「やさしい」感じではないですよね。
人の情感には全く納まらない感じです。

>その思考は、手放すことに躊躇う必要はありません。意識から失われても、なくなることはなにもない、です。

一切をはらりと手放すのが最もシンプルですが、これは大切だから残しておいて、これはいらないから手放してとか、順番に少しずつ、とかやっているとなかなか手放せない。。
表層はほとんど手放せても中心だけはなかなか手放せないとか。。
これも個体個々の個性、センス、気質によるのかなーと感じます。

No.3290 - 2011/03/01(Tue) 10:17:01

Re: 一対一? / hato

芸術として写真を撮ることは、自分は範疇外ですね。構図・・色具合とか・・個々には殆ど考えてないですもの。携帯カメラの気楽さが調度いいのでしょう。

白川という人の画像は、ubik0101さんに出会ったごく始めの頃、こんな写真ほかに知らないよ、と教えて貰って見ました。

今日は、薄灰色の曇り空に春雨です。庭のジョウビタキが、梅の木あたりに跳びました。雪解けの春近い・・・でしょうか。

No.3291 - 2011/03/01(Tue) 13:47:43