だいぶ暖かいですね。
下記でご紹介したサイトを読んでいたら、
「探求とは、源泉を求めることではなく、源泉を隠している個人的行為者という感覚、エゴを取り除くことなのです。 あなたは、「自分」がそのエゴを取り除くのだと聞かされています。 私は、「誰」が「誰の」エゴを取り除くのか?と尋ねます。 その結果、私は源泉を隠すエゴ――エゴを創造したそのパワー、すなわち源泉のみがエゴを取り除くことができる、という結論に至っています。」
という文章が『誰がかまうもんか?!』(p187-188)から引用されていました。
たしかに、自我が、自らを解体していく作業を「探求」といっていて、外見的作業もその通りなのですが、どこかの聖者さんが「自らを知ろうという欲求も神の恩寵」とか言ってたと本で読みましたが、「自らを探求しよう」という意思は、実は自我ではなく源泉から発したもので、自我は単に、我知らず源泉?に、自我自らを崩壊させるためのツールとして使われてしまう……つまり、全てが、単なるプロセスなのかもしれないと思ったのでした。 「自分」が、探求している、という感覚が間違っていたのかもしれない…全部、そのように決まっていたというのか。
ubik0101さんの言う「絶対不自由」というのの意味がよくわからないのですが、こういう感じかもしれないですね。 徒労感というか、脱力というか。
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No.3274 - 2011/02/27(Sun) 16:19:19
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