それで、なんだかの思考から知覚へのシフトは、誰でも簡単です。たとえば窓から外を見ればいいのです。風に吹かれれば、鳥の鳴き声が聞こえれば・・・それ、が、それ、です。
それを対象にしてないのに世界は・・・見ようとしなくても・・・見えて・・・聞こうとしてないのに・・・聞こえてるのではないでしょうか。
その対象にしないということは・・・とても説明ですが・・・対象にしてる中心、自我、自分、自己が、ない、という事態です。これは、この、このことが、神秘。とても不思議なんです。
ここは。たとえば世界が、自分が、時間が、あってもなくても、そんな、あるないの範疇になくても・・・畑を耕し種を蒔き、疲れては休んでも・・・そのことに、なんの関係もなく、そうです。なんであれ、自分の、世界の、不思議の、探求を、始めるのは常にここからです。これしか、したことがないように思います。
ここで、すこしの疑問が生じます。たとえば、自我がない、という体験。それは明瞭なんです。これまでの、どんな状態とも違う、総てが変わってしまうほどのことです。しかし、それは、ない、ということが、どいうことか知らないのです。
もしかして、ない、ということが何かを知らないということにおいて、その自我はない、という体験、そして表現は、なされてるかもしれません。ならば、その体験とか表現とかの基本、前提が、不明ということです。それはもう疑いようがなく当然のこととして、数学の公式のように不問にすることは、好みではないです。
ない、体験によって、その、ない、ということが、 どいう意味なのか?が、やっと視野に捉えられるようになる、のではないでしょうか。そこに未知が明るく深く静かに広がってるのではないでしょうか。
こんなことを、雨の日・・・晴れの日・・・桜吹雪の季節・・・水茄子の苗の季節・・・鳥の鳴き声・・・が、話しかけています。聞きます。それが、日常、という言葉の意味です。
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No.3380 - 2011/05/01(Sun) 08:08:36
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