ふつうは、なにかが機能していて知覚されることを、ある、と呼びます。たとえば、たぬきが暮らしてる壊れかけた古屋がある、というのは、古屋が古屋として機能していて、そう知覚されてる、ということです。それは、たとえば新築の家としては、ない、です。
ところでまた、機能していて知覚されないことを、ない、と呼ぶことがあります。この見たり聞いたりは、機能しているのですが、そうしてる中心は、知覚されません。これを、ない、と呼べば呼べます。つまり、見たり聞いたりしてる自分が、ない、です。
ここで、機能していて知覚されるという意味で、ある、のは、たとえば、この庭、この呼吸、この思考・・・知覚とその対象・意識とその対象・・・一切・・・だけです。それで、たとえば、この庭が自分。という表現はできるのですが、やはり不正確です。それは知覚の範疇ではない、ある、ない、を見逃しています。
その、ある、の意味は、それ自身がそれの自身に原因なことを、ある、と呼ぶ、ことです。だからこそ、自我は、ない、と識別できるのです。ただこれは、知覚の範疇にありません。もちろん、意識、思考は、それ、ある、を感知も、関知もできません。それにとっては、ない、です。
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No.3384 - 2011/05/03(Tue) 21:35:49
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