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記事No.3410に関するスレッドです

反応パート4 / ubik0101
ふつうは、なにかが機能していて知覚されることを、ある、と呼びます。たとえば、たぬきが暮らしてる壊れかけた古屋がある、というのは、古屋が古屋として機能していて、そう知覚されてる、ということです。それは、たとえば新築の家としては、ない、です。

ところでまた、機能していて知覚されないことを、ない、と呼ぶことがあります。この見たり聞いたりは、機能しているのですが、そうしてる中心は、知覚されません。これを、ない、と呼べば呼べます。つまり、見たり聞いたりしてる自分が、ない、です。

ここで、機能していて知覚されるという意味で、ある、のは、たとえば、この庭、この呼吸、この思考・・・知覚とその対象・意識とその対象・・・一切・・・だけです。それで、たとえば、この庭が自分。という表現はできるのですが、やはり不正確です。それは知覚の範疇ではない、ある、ない、を見逃しています。

その、ある、の意味は、それ自身がそれの自身に原因なことを、ある、と呼ぶ、ことです。だからこそ、自我は、ない、と識別できるのです。ただこれは、知覚の範疇にありません。もちろん、意識、思考は、それ、ある、を感知も、関知もできません。それにとっては、ない、です。

No.3384 - 2011/05/03(Tue) 21:35:49

Re: 反応パート4 / ubik0101
ところで日常は、意識から知覚にシフトしているので、思考としての・・・時間が、自我が、自分が、自己が、世界が・・・ある、ない、を言っても、ほとんど意味を失いかけています。自我とか無我とか、どうでもいい・・・自我もなければ無我もない・・・です。

ここでは、たとえば、今があるとか、ないとかは、思考の範疇にないことは明確です。思考は、いま、を知覚しようとするかも知れませんが、そうではありません。知覚が問題なく機能してること、たとえば見る聞く思考する、そのことを、いま、と呼ぶのです。

では。何が聞いてるのか?見てるのは何か?知覚できない、それは知覚の範疇にない、というだけのことです。それで、それは、機能していて知覚される、されないという意味での、あるないの、範疇にはありません。ここで、知覚されない、ある、を見逃して、ある、のは知覚だけ・・・たとえば見るものは見られるもの・・・という表現は・・・一方は自我、一方は無我・・・両義的であり不正確です。

まあ、とにかく知覚・・・そこで思考の性質が、すこし見えてきます。思考は、それが知覚されるだけで、その思考が事実なのか、空想なのか、まったく識別しません。その思考は、また知覚も、その始まりも終わりも意に介しません。それはそうで、知覚が機能してるだけだからです。

その思考、知覚が、空想なのか?また現実そうなのか?これは判断の必要があるようです。たとえば自我の場合は、これが困難な傾向にあります。その困難の原因は、意識に依存してる、その中心が仮にですが、生じてるからのようです。

No.3385 - 2011/05/03(Tue) 21:46:49

Re: 反応パート4 / ubik0101
なんでも100円ショップで、2袋100円だった春大根の種が発芽しました。ふつう野菜の種は、たくさん蒔いて成長につれ、順次間引いていくのですが、とくに大きさを揃える必要もありません。それで、はじめから間を空けて蒔いてみました。
No.3386 - 2011/05/04(Wed) 07:08:52

Re: 反応パート4 / ubik0101
その大根の芽の畝の近く・・・たんぽぽの種、です。
No.3387 - 2011/05/04(Wed) 07:11:04

Re: 反応パート4 / ubik0101
なかなかそれらしい、廃墟のカフェ前にある、蔦の絡まる石です。
No.3388 - 2011/05/04(Wed) 07:30:47

Re: 反応パート4 / hato

そこで今日は、みどりの日。庭の木々や花をみたり、ふたりともすこし、昼寝をしました。

昨日は、パソコン教室で知り合った知人たちが、遊びにやってきてくれて、大掃除に準備にと大奔走。ubik0101さんのアクアパッツァが大変好評で、なんて嬉しい。ちょっとした庭散策が喜ばれた、春ひとときでした。

すこし前、ユーカリと桜の木の下に、カフェテーブルを置いてみました。廃墟のカフェとは、また違った趣です。

No.3389 - 2011/05/04(Wed) 19:55:56

Re: 反応パート4 / ubik0101
ラジオが、東北の津波の瓦礫の片づけのボランティアの話をしていました。そこで、ふと。人がボランティアするという表現もあるかもしれないけど、ボランティアすることで、そうしてる人が創られる。ということも言えそうです。と、思考しました。

たとえば、まず自分があって、それが、ほかの人のために頑張ろう、という理由で、行動するのでしょうか?という疑問です。それは計画が頓挫したり、変更したりすることで停滞するかもしれません。

そうではなくて、《作業は辛いかな?でも人のために頑張ろう》という人は《作業は辛いかな?でも人のために頑張ろう》という自分。そして実際に行動したら、その自分。行動しなかったら、その自分。を創っているのではないでしょうか。

じゃ、あなたは、ボランティアに行かないの?という人は、じゃ、あなたはボランティアに行かないの?いや、ボランティアより優れたことをする、という人は、ボランティアより優れたことをする・・・なんであれ、その行動で、発言で、思考で・・・また、見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触るで・・・そんな自分を創ってるのではないでしょうか。

そしてこれは、誰かが、どう思考するとか、しないとか、理由の有無に、まったく関係なく、正確に、そうなのではないでしょうか。これは仏教用語に詳しくありませんが、自業自得、ということでしょうか。なにかの過去のことが結果として現れたのではなく、ただ、いま、そうなのではないでしょうか。

ここで、世界は、つまり自分は変えられることに気がつくのではないでしょうか。このことの精髄が「あらゆる悪いことをせず、あらゆる善いことをしよう」ではないでしょうか。

たとえば自我・・・心理的思考・・・葛藤・・・そのことは、苦しいのかもしれませんが、たとえば空想と事実を混同し、そういう苦しい自分を創ってるのではないでしょうか。そして、これは世界と自分との、自分と自分との分離だ。とか見なすならば。それは、そう見なす自分を創ってるのではないでしょうか。

たとえば、非難と正当化。(a)ほかの人を非難して、自分を正当化するとします。そして、正確に機能する思考は、順列組み合わせの通りに、(b)ほかの人を正当化して、自分を非難する、それぞれ単独もある、ということを等しく用意しています。

たとえば(a)だけではアンバランスなのですが、そのためには空想と事実を識別しない愚かさ、曖昧な思考、とかを要するようです。

No.3390 - 2011/05/06(Fri) 20:17:59

Re: 反応パート4 / peer
いや〜まぁ。考えますね。
ボランティアする人を作るのは、それを求めている人。
じゃないかな〜と思いますよ。
何をしたらいいか分からないけれど、この災害をジッと見ていられない。
みたいな想いが、人を動かすでしょ。
困り切っている人を観て「それは他人の事だから」と思ったら
ボランティアというモノがあることにも気付かない。
ボランティアしている人を観て「偽善だ」とさえ、言いかねない。

No.3391 - 2011/05/07(Sat) 03:02:38

Re: 反応パート4 / ubik0101
そこで、ほかの人を観て「偽善だ」とか、そういうことを言う誰かは、そういうことを言う、その自分を作ってる、または創らされてしまってる、のかもしれません。そこで、

>ボランティアしている人を観て「偽善だ」とさえ、言いかねない

そんなことを言うpeerさんは、そんなことを言うpeerさんを創ってる・・・と、思考してるubik0101は、そう思考してるubik0101を創ってる。そこで、

じゃ、どう思考しても自分のことでしかないのだ。人は人。これは空想することが問題なのかな?じゃ、事実だけを見よう・・・いや、そういう自分が創られなければ無問題?・・・でも、それはそういう自分のことでしかない・・・で、なんか閉塞感が漂います。

No.3392 - 2011/05/07(Sat) 19:08:38

Re: 反応パート4 / peer
いゃあ〜どうだか分からないんですけどね。
やってみたら、考えていたコトと違うかも知れないし。
生きると言うのは、やっぱ、何かと関わる事だと思う。
もちろん、これ、私の狭い考えですけど。
関わらないと自分の考えや想像の世界に埋没しちゃう。
・・・つまりは、自分のことしか考えていない人、になる
危険を感じる。ので。

No.3393 - 2011/05/08(Sun) 01:41:48

Re: 反応パート4 / ubik0101
ちょい単純にしてみました。たとえば庭を見ています。すると見てる自分が創られます。その自分は、なんだか訳がわかりませんが、庭を見ています。

ここで、知覚の範疇だけ大雑把に認識するなら、これは、見えてるのも見てるのも自分・・・庭は自分だ。と、すると。あまりに小さいループができて、閉塞感があります。

それはまた、とにかく庭がある、ということが暗黙の内に前提にされてるようです。庭という客観が確かに、ある、ということです。 これも、ちょっと閉塞感です。

このような、なにかによって創られる自分、というのは、自我の機能です。人は世界に自分を創ってもらってるのです。これも閉塞感です。

でも、そんなことも忘れて玄関から出て、花を植えたり、畑を作ったりして、庭を変えることができます。そこで、そのことによって作られる自分も変わります。 それで自分も庭も変化するという認識ができます。

これは世界(知覚)でも、人間関係、もしかして自分との関係(意識)でも、まあ、同じような案配のようです。

ここでまた、世界とか、ほかの人とかに関わって、創られる自分。あるいは創られる必要がない、自分。それが見えないので何だか分からない、ということもあります。

ところで、さて。たとえば朝、誰かに出会って、お早う、と言います。とくに分離とか、心理的な思考の有無とかではなく。ただ、反応、があるだけです。これが、自我と言えば、自我です。こんな状態が、ここでの課題かもしれません。

ここでは、このように観察されます・・・たとえば、人間関係・・・ほかの人の不満は、それが正当性があっても、なくても、恐怖を呼び起こすようです。それが権力欲の人の支離滅裂な対人関係。

そういう恐怖を感じなくするためには、たとえば隣家の喧噪をテレビの大音量で打ち消したつもりになれるように、不満に不満を投げ返して鈍感になる。けど、自分が発する不満も、自分にとって恐怖。そう作られてるようです。

この辺では、いざらい、という用水路の掃除があります。そのあぜ道、あざみ、が咲いていました。

No.3394 - 2011/05/08(Sun) 20:46:01

Re: 反応パート4 / hato

こちら、今年初の、デッキで発見した、エルちゃん。
どう撮ってみても、なにか不満気な風情が漂うエルちゃん1号。まだ身体が慣れないのかも知れません。いい陽気に誘われて、出てきたのでしょう。ドアのあたりにもう一匹。春ですねえ。

こんにちは。冬眠、いかがでしたか?

No.3395 - 2011/05/08(Sun) 22:33:07

Re: 反応パート4 / hato

さくらんぼが食べ頃です。赤いのをすこしだけ、採りました。なんてきれいな実。

No.3396 - 2011/05/08(Sun) 22:35:47

Re: 反応パート4 / hato

確かに、さくらんぼの味がしました。

No.3397 - 2011/05/08(Sun) 22:37:33

Re: 反応パート4 / ルー
> すこし前、ユーカリと桜の木の下に、カフェテーブルを置いてみました。廃墟のカフェとは、また違った趣です。

素敵な写真ですね!

こんなところで、やさしい風に吹かれながら読書などしてみたら貴婦人のようではないですか。

No.3401 - 2011/05/11(Wed) 16:02:41

Re: 反応パート4 / hato

> こんなところで、やさしい風に吹かれながら読書などしてみたら貴婦人のようではないですか。

ルーさん、なんてロマンチックな。
若干の問題は、遠州空っ風(からっかぜ)。凄いんです。本のページは吹っ飛び・・・目もパチパチしてしまいそうです。無風のひとときを見つけねば。

ライラック。薄紫の花の形がいいですね。素敵な香りがします。

No.3404 - 2011/05/11(Wed) 22:23:55

Re: 反応パート4 / ルー
> ライラック。薄紫の花の形がいいですね。素敵な香りがします。

ほんとう。ひとつひとつの花びら(?)の形がきれい。

蕾の時の形や色もいいですね。

花言葉を調べたら、紫のライラックは「愛の芽生え、初恋」でした。

何か、韓流ドラマをイメージしてしまう私は、もう毒されているのかしら?

No.3407 - 2011/05/12(Thu) 09:33:02

Re: 反応パート4 / hato

> 花言葉を調べたら、紫のライラックは「愛の芽生え、初恋」でした。

きれいですね。初恋。

> 何か、韓流ドラマをイメージしてしまう私は、もう毒されているのかしら?

初恋は、そのままよい響きですが、愛の芽生え。て、妙〜な感じですもんね。

自分は興味が持てないのですけど、韓流、嵌ると凄いらしいですね。。

こちら小さな花の雰囲気が、すこし似ているでしょうか。画像は反射してしまいましたが、カナメの花。とても可愛いんですよ。

No.3410 - 2011/05/12(Thu) 23:00:26