この庭は、自分、ではなく、この庭を見たり聞いたり・・・花の苗を植えたり、誰かと話したりすることで・・・たとえば磁石に接近した鉄片が磁気を帯びるように・・・そうしてる自分、が創られます。これが、反応、です。これは、そう気がつく気がつかない、思考する思考しないに関わらず、たとえば庭を、ある、と見なしています。
そして、その知覚の反応によって生じた自分が、花を見たり、風を聞いたりすると捉えると、その自分が予め、ある、と見なされています。これは、その人の行動、発言、思考、知覚によって自覚できるような気がする自我ではないでしょうか。
ここで、(A)庭の花とか蜜蜂とかはもちろんですが・・・(B)熱い寒い痛い痒いとかの身体感覚、感情、思考も知覚されることです。どれも知覚であり、そのことによって、それを知覚してる自分が創られます。けど、その自分そのことは・・・無我が明確なら明確ですが・・・自分で知覚できません。これは何を意味するのでしょう?
ひとつには知覚がなければ、自分が創られないということです。(B)を自分と呼ぶとして、それがなければ(A)つまり世界もない、と感じられるかもしれません。
また。 ほんとーに庭が自分なら、それを知覚できないでしょう。ということです。では、やはり知覚とは、差の認識、ではないでしょうか。花や鳥、身体感覚や感情や思考は、差を認識してるのです。
そして、どんなこととも差がなく・・・どんなことでもある、どんなことでもない。とか、どう言っても大差なしの・・・知覚できない何かを、自分、と呼ぶのではないでしょうか。
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No.3426 - 2011/05/23(Mon) 14:44:06
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