もしかしてubiさんは直感というか体験のことを言ってるのかなと感じました。 たとえば何かの思考、イメージが湧いて、それがなんの知的検討も介入せず、即、腑に落ちるというか、納得というか、自明で迷いのない絶対感というか。。
その思考・イメージを絶対的な体験を、無知でない状態としていて、それとの比較から以下のようなコメントをされているとすれば。。
>ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。
>たとえば、なにかについて無知なら、そう思考してなくても、その無知が機能して。自分について無知なら、無知だと思考しても、そう思考しなくても、賢いと思考しても、その無知は機能してるかもしれません。
> たとえばsuhoさんが虚偽でなく、そのあり方のままを思考します。それしか思考はできないかもしれません。それ自体に思考には判断機能がないから、なんでも思考できる。その思考そのことが、過去を参照するというのではないけど、判断といも言える。ってことでしょうか。これは、
上のコメントで、ubiさんが体験された、その直感的「絶対感」を伴ったイメージを「定義」あるいは「虚偽の根拠」あるいは「事実」だとしているのであれば、上のようにコメントをされたことは理解できます。
suhoさんはそれを知ってなければ、無知が機能しているでしょうと。
そういう意味だとして。。
しかしこの場合、その絶対感を伴ったイメージは、ubiさんが体験されたものであって、僕がそれを知りえないのは当然ではないでしょうか?
そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?
これはあくまでも推測ですので、違っていたらすみません。 ubiさんは、たびたび「覚醒体験」?の重要性を書かれていたので、そのように推測してみました。
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No.3460 - 2011/05/28(Sat) 21:30:04
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