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記事No.3471に関するスレッドです

自我の研究《概観》 / ubik0101
まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

No.3471 - 2011/05/30(Mon) 10:21:12

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

その自我と定義しているのも思考と感じます。
ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

> それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

> なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

> まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

ああ、これは少し感じがわかります。
自ら閉塞した空間で、延々とループしているときがそうです。で、エネルギーが、自ら圧縮しあっているので、破壊的です。場合によっては爆発です。

> そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

うーん。ここもどのような部分をそう言語表現されているのか。。言葉は観念であり、データですので、おそらくubiさんはubiさんなりの観念・定義で、世界を見ているような気がします。

> そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

>ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

ここはよくわかりません。

> おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

確かに、思考は正確に機能します。が、自ら観念で領域を狭めて、データ(記憶)を蓄積し続けると、エネルギーが閉塞してしまい、バグをおこすようです。それが混乱、葛藤です。

> この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

むむむ。青い香りがぷんぷんしてくる感じです。
あー。最近はスーパーで買える野菜が限られてきました。。

No.3472 - 2011/05/30(Mon) 23:46:30

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
> その自我と定義しているのも思考と感じます。

たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。

つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

> ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

そうです。思考の運動そのことは成長しません。あくまで喩えですが、ボートで、魚を釣ろうという意図があって、毎日のように太平洋に漕ぎ出します。

オールで漕ぎます。雨の日があります。晴れの日があります。魚は釣れたり、釣れなかったりします。喜びます、怒ります。タックル、餌は、こうじゃない、ああじゃないと、葛藤するかもしれません。おなじことに見えることを、死ぬまで繰り返すかもしれません。

その意図は、魚釣りです。なにかを求めているのです。しかし、毎日、ともかくボートを漕ぐならば、海を学び気象を学び魚との関係を学びます。しかしここで、なんであれ意図しないでも、身体には筋力がついてしまいます。

それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

> ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

> 葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

> はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します

No.3473 - 2011/05/31(Tue) 09:49:13

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> > その自我と定義しているのも思考と感じます。
>
> たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。


もしかしてubiさんは、僕が使う「精神」のことを「自我」と表現されているのかなと感じました。
上で書かれたものが、感情をともなった「重い反応」として生じているのであれば、確かに空想というか、1つの葛藤反応です。

> つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。
上でかかれていることは、わかります。

> それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

> ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

はい。経験のあらゆることが、それの理解へのきっかけであったことが理解される。はい。
依存することはない、とも表現できるし、自ずと捨てられる、あるいは、その経験(記憶)に翻弄されることがなくなる。

> ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

獲得した、という表現がちょっと違和感がありますが。。精神が獲得した、というよりも、それは、非個人的に、すでにそうであるのもであって、ただ、精神が混乱していたために、それに気づけなかった、という表現のほうが僕はしっくりきます。それは、ひとしく、すべてに、常に、働いているもの。

> ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

はい。わかります。

> たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。

はい。わかります。

>なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

ああ、わかりました。それは僕が言葉を「記号」と表現している意味と同じです。
記号自体は、単なる無機質な「名」「データ」ですので、それそのものと干渉しません。はい。

No.3474 - 2011/05/31(Tue) 11:55:48

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

はい。それは非個人的なものです。
世界の機能。。そうとも言えますか。はい。
先の話ではないけれど、起きてくる経験も、世界の機能。はい。

> どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

> > はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。
>
> と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します


はい。今回は、ubiさんの言われてることが、理解できたと思います。

No.3475 - 2011/05/31(Tue) 11:56:59

Re: 自我の研究《概観》 / suho
もうちょっと、ここを詳しく書いてみます。

> > どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。
>
> その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。


「自分」という言葉は言葉そのものです。ただ、この個体である肉体を指す「名」「データ」です。同じく、実名もそうです。「私」でもそうです。

そして、そこに自分「の」、という「所有の観念」が生じます。あるいは自分「が」という「主体観念」。
これも日常生活上の、実用上の「名」として機能していれば、特に問題がありません。

> これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。

この「自分」「自分の」「自分が」という名と、この個体である肉体・精神(心)を同一化すると、つまり、この観念を実体として錯覚すると、分離という錯覚・思い込みが起こります。

> ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。

「個々に分離した実体」という観念(データ)への同一化によって(これは、生まれ育った環境で条件付けられることも要因)、そのエネルギーの閉塞から「苦しみ」という知覚が生じるため、精神はこれを嫌がり、避けようとし、別な「観念」を生み出し、の逃避を試みます。それが願望であり、動機。「あるべきもの」とも言います。
この現行から「願望・動機」への逃避運動の衝動が「欲望」と呼ばれるエネルギーであり、混乱、葛藤を生む原因。

しかし、まさにこの心理運動が、その構造全体を理解する直接の機会であり「世界の機能」といえば、そうとも言えると思いますが、そのへんは、まだ調べている途中です。

No.3476 - 2011/05/31(Tue) 14:50:39

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
>ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。


まあ、精神とか心とか、その言葉で考えることは、滅多にないです。用語の違いかもしれません。

ところで、ここでいう自我とは、かなり広義で、意味としては希薄です。たとえば、死んでしまっては、見る聞く思考しない、と(仮定)します。なにも、その人において反応が生じない、と(仮定)します。

そうでなく生きていて、 なにか見る聞く思考する、知覚に、反応、して創られる、自分を自我と呼べるだろう、という意味です。なにか見る聞く思考する、意識が機能してる、そのこと、とも言えます。ふつうに言う、僕、俺、私、です。

それで、とくに感情を伴った重い反応でなくても、ただほかの人の有り様を思考する、その事態が空想だ。という意味です。もちろん、重い反応、激しい反応、も空想です。

それと、自我な自分が、自我な自分を研究することができるのも、いわゆる世界との分離、自分と自分との分離、ゆえに可能だと・・・そう近似値的には説明される、ことだと思います。

それは、

>その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
>これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
>ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。


と働くのでしょう。

ここは、それぞれの経緯によっての表現があるのでしょう。問題や対立を引き起こすのは、同化、中心化、というより、完全同一、完全中心でないという意味での、半反同化、半反中心化とも言えそうです。 けど、どうも正確な説明は困難なようです 。

あるいは、すでに暗い深い淵を飛び越えて、その淵の手前で迷ってた状態を、同化とか、中心化とか、分離とかとして、説明してるので。 これはたぶん、観測位置によって、さまざま解されるのでしょう。

それで、心理的思考、葛藤、分離、心理的時間、とかだけではなく。自我そのことは自覚できないけど、それが行動、発言、思考によって自覚できるようになる・・・自我とは、自分で自分を自覚したいこととか。反応、とかが見える、ということだと思います。

それで、こんなことを思考してる自分の経緯とか有り様とかを探ると、どうも世界が、美しくなるのを望んでる。善い、を望んでる。真であることを望んでる。人は、それに参画してる。というところが感じられます。

それゆえ、たとえば自我とか、原子力発電所の有り様とかのことを、なんとか明確に理解したい表現したい、そのことで・・・ことさらには役に立ちたいと思わないけど・・・役に立ちたい・・・そんな気持があるのではないでしょうか。

>はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

これは。その人の努力に関係なく、関係ないのでもなく、成長は起こります。うろ覚えですが聖書の言葉、「種を蒔くと発芽して夜も昼も成長します。そして収穫は一気です。なぜそれが育つのか、収穫できるのか人は知らない」に近い感じです。

No.3477 - 2011/05/31(Tue) 18:00:12

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
>そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。


もしかしたら、ここで世界の総活動、と言ってることに相当するかもしれません。ただ、そのことに、なにか原因があるという意味でならば、「同じものの、異なる表れ、運動」、とは感じないです。

とあることと、その類似のことと、その反対のこと、無関係なこと・・・ありとあらゆることと、ありとありえないこと・・・総てが機能してる。それだけで・・・原因は探ったこともないんです。

ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

No.3478 - 2011/05/31(Tue) 20:43:46

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

先ほど丸美屋のマーボナスの素を買って家に帰り、マーボつながりだからいいかっと、ナスと豆腐を炒めて、何せはじめての感じなので、若干の期待をしつつ食べてみたところ。。

ところで「世界の総活動」ですか。うむむむ。
意識が機能しながら、意識に依存しない。。
わけがわからんのがポっポっポポンと。。

で、口に入れたわけですが。
予想を超えて残念な味でした。。

つーか丸美屋あまり合わないかも。

なぜ?

No.3479 - 2011/05/31(Tue) 21:36:07

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101&hato
それが機能してるのでなくて、どうして
それに依存しない、ということが完成するしょう。

と、いうことで、

クックドウーの、チンジャオロースの素は、キャベツ炒めても、白菜炒めても、なんでもいけます。

ubik0101


世界は人にそれ自身を、「理解」とのかたちで与えますが、その世界とは、ことさら、全体、ともいえません。それは厳然と「世界として不可分」ながら、ことさらに全体、ひとつ、との、趣意を得ているわけでも、ないようです。

意識に依存して・・・というとき、その意識には偏重があります。その意識で世界を見るとき、偏重された向きでの内容探査に向かうことがあります。

それで、でーも、

ハトポッポは、クックドゥのチンジャオロースは、チンジャオロースが美味しかったのよね。と思いました。

hato

No.3481 - 2011/06/01(Wed) 01:36:16