まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。
それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。
その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。
なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。
まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。
そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。
そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。
ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。
おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。
この雨上がり・・・まだ青いトマトです。
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No.3471 - 2011/05/30(Mon) 10:21:12
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