たとえば通りすがりの家のガレージの扉が開いて、車が出てきました。立ち止まって見送ります。そこで。ガレージの扉が閉まってた状態では、車が見えませんでした。そのときの、車は、あるのかないのか?を思考することはできます。
その車が知覚・意識されない状況では、ガレージには車はあるかないか不明です。とくになにか理由がなければ、日常でも、あるとかないとかは、考えてないでしょう。
(a)・・・そこで扉が開いたら車がありました。これを、扉を閉めてれば車はなく、扉をあけたら車がある。と、観測される、とします。
このことから、意識を離れて外界はない、あるいは意識はその内容、意識内容がなければ観察者もいない。と判定するとします。しかし、そう判定するのは意識です。つまり、そう判定する意識は、そう判定する、というだけのことです。
(b)・・・扉を開けて、車がありませんでした。これを、ガレージにあった車が扉を開けることで、消えてなくなる、と観測される、ということも考えられます。
この(a)(b)どちらも扉を開ける前の車は、あるかないか判らないのに、知覚の示すことと逆に空想した、思考による演繹です。
(c)・・・扉を開けて車がなければ扉を開ける前もありません。(d)・・・車があれば、扉を開ける前もあります。と考えるのが、一般かもしれません。これは知覚の示すことと同じに空想した、思考による演繹です。
ここから意識を離れて外界はある、あるいは意識はその内容ではない、と演繹しやすいかもしれません。
これも、そう判定するのは意識です。そして、この範疇でしか意識が動かないなら、観測者が、扉を開ける前からいた、という空想を要するかもしれません。
それで、細かく見れば、まだ縺れた思考が見つかりそうですが・・・おおまかに言えばですが、車にしても観測者にしても、扉を開ける前の状態は、まったく空想です。それに気がついてないために、(a)〜(d)の判定がなされるということです。
そこから、たとえば意識はその内容、あるいは意識はその内容ではない。観察者があるない、と見なされる。それだけのことです。
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No.3512 - 2011/06/10(Fri) 08:31:32
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