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記事No.3561に関するスレッドです

差の認識 2 / peer
>たとえば親や友人の言うこと、また、なんだかの知識から・・・
>つまり自分の外から自分が見れない・・・
>その何が何だか判らないままの自分、それはなくしちゃいけない
>ような気がして、それを守るために、世間が嫌いとか、
>常識が嫌いとか、けっこう軋轢がありました。
>でも、ほかの人と価値観が違うというより、価値観そのことが
>持てない、なので何かを立場にして社会に反抗する
>こともできない・・・もとより価値観とかは初めからあるわけ
>ではないし学ばなくてはならないのでしょうし・・・
>支離滅裂・・・でした。


全体的に感じることは。守るという感覚は。
価値観とか世界観への違和感ではなく
「そこに愛はあるか」ということへの違和感。
なのではないかと〜感じます。
人がどんな価値観を持っても良くも悪くもない。
ただ、そこに愛があるかどうか。
愛は、教えられるものではなく、もともとある。
だから学ぶようなモノでないワケで〜
誰もが、それを指標とする。真理。表現は様々で。
その様々に惑わされてしまうかどうか。かなと。

No.3547 - 2011/07/11(Mon) 12:17:28

Re: 差の認識 2 / ubik0101
>「そこに愛はあるか」ということへの違和感。

ほかの人を信じてると言えば、客観的な認識が必要ですが、そうでなく根っから疑わないところがありました。 たとえば虐められても、すぐ忘れて、なついていって変な奴と思われたりしました。

なにか嫌なことされたから苦しくて、その相手を仲間じゃないとか思う、そういう何だかの立場の自分をつくれない、でもやはり傷ついてばかりいたように思います。ほかの誰かが自他を区別するのが辛い、という傾向もありました。

みんな、そうなんでしょう。でも、なにかを対象にしてしまうだけで、そこに好き嫌い損得などの意味が生じ、それはもう仲間と、仲間じゃないの区別が生じてるかもしれません。そんなことが恥ずかしい、それでそこに飛び込めない、そんな世間知らずの自覚はありました。

続きます。

No.3548 - 2011/07/11(Mon) 16:09:30

Re: 差の認識 2 / ubik0101
>誰もが、それを指標とする。真理。表現は様々で。
>その様々に惑わされてしまうかどうか。かなと。


まあ真理と言うより、単なる事実ですけど。そのテーマでもあります。いつの頃までか、世界は重かった。それは自分が死んでも継続するような確固としたものでした。でも、知ってるということが何かを知らず、知らないということがなにかを知らない・・・意識には知る機能はない・・・そうなると、世界は重いということはなくなります。

これが、たとえば知覚/意識の範囲内と外の境界のなくなったこと。つまり、意識の範囲内のことも、未知、つまり、意識の内も外も、未知、です。満遍なく未知。によって起こった。といえば、それは、とても説明なんです。

というのも、それを意識の経緯として辿ったわけではないからです。これ、はなぜ、これ?とか、変調とか、A=Aとか、知覚の経路を、そう意図したわけではないけど辿った。それは経緯の外で起こって、そう感じられました。それで世界は軽くなったことを・・・結果的に説明できるだけです。

それは、世界に自分しかいないから、人は意識の外に出られないから、というわけではないのです。ここでは、自分が死んでも世界は持続するも、その反対の、自分が死ぬと世界もなくなる。どちらの思考も、立場も、感覚も、不要なんです。ふつうの言い方では、ない、です。

もしかしてですが、世界の重さから軽さに、直接に辿ってしまうと、無我なのに独我とか、自分がないと世界もないとか、表現の偏り、歪みというか断層が、説明としても、なんだかの対立関係を要するかもしれません。

その説明を事実と見なすと困ったことにもなりそうです。でも自分で歩く探究者なら、そこからも学べるし解決できます。

あと課題としては・・・思考も差の認識なんですが、見る聞くの知覚の差の認識・・・それも直接の経緯を辿らないかもしれませんが・・・それを見ることは面白そうだ、とは思います。

No.3549 - 2011/07/11(Mon) 16:26:56

Re: 差の認識 2 / peer
>なにか嫌なことされたから苦しくて、その相手を仲間じゃないとか思う、
>そういう何だかの立場の自分をつくれない、


それは、たとえば〜
嫌がらせに対して嫌がらせで抵抗する
暴力に対して暴力で抵抗する・・・
それが普通の人の反応なのだと思うのですが、
それは
自分と他人が違う。ということに原因がある
かも知れないという気がしています。
つまり、自分は他者とは違う。自分は特別な存在。
と自分で区別したい思いが、そうさせる。ような。

もし相手と自分を区別しなくていいなら
相手と自分が同じモノとして捉えていたら
嫌がらせを嫌がらせと感じない
暴力を暴力と感じない
(つまり抵抗する〜から、嫌がらせや暴力と見る)
自然な交流がある、かも知れないと思います。

No.3550 - 2011/07/12(Tue) 01:43:29

Re: 差の認識 2 / ubik0101
たぶん特別感というのは、たとえ「自分は特別」という感情や思考がなくても、そういう人は、そういう状態。ということもあるかもしれません。

それが、その人の行動、発言、思考に現れて、やっと気がつくかもしれないことになる、ということもあるかもしれません。

たとえば、あの人は自分を特別だと思ってる、と見るその人が、そう自分を感じなくても「自分は特別」かもしれません。

かもしれません、ばかりですが・・・自分と、ほかの人が違うとか、同じとか、どちらもないところで。つまり、どちらもある可能性があるところで、とくに子供とかは、どちらにも転ばず生きてるのではないでしょうか。

でも、ほかの人との関係では、どちらに転ばず生きる範囲の限界を超えることがあります。とても期待されることも含めて、極度に虐められると、その反動で 「自分は特別」と感じることもあるでしょう。

続きます。

No.3551 - 2011/07/12(Tue) 15:25:13

Re: 差の認識 2 / ubik0101
それを正当化するために、理由なしの「自分は特別」と自分で設定して気がつかないこともあるでしょう。また、その反動として。みんな平等。みんな特別。とかも起こったりする、かもしれません。

あるいは、あんまり特別ではないのに、「自分は特別」と思考するのが、変なのかもしれません。まったく特別なら「自分は特別」の思考は生じても生じなくても無問題かもしれません。それに、ほかの人と、自分。それは違うとか同じとかいうものではないです。

でも、このように、いろいろ思考するということは、とくにどこにも転んでない何でもないところから偏ることによって、生起しています。思考も、差の認識、かもしれません。

なにか思考してるその状態と、その思考をしてないその状態を見ることは、無意味ではないと思いました。

このあたりでは道端に小さな無人の小屋があって、野菜を売っています。ビニール袋にトマト7つで、100円でした。

No.3552 - 2011/07/12(Tue) 15:32:17

Re: 差の認識 2 / peer
ほかの誰かが死んでも自分は生きてる、また自分が死んでも誰かは生きてるでしょう。
生まれる前からの過去があって、死んでからの未来がある。

↑この感覚自体が「自分は特別」であり「自分がすべての基準・中心」感覚だろうな〜と思います。
ということで「思考すること」には、常にその意識しない基準があって、それを取っ払えない・・・。
まぁ。そうして、一人ひとりが世界という構造が永遠に続いているワケですね。

No.3553 - 2011/07/13(Wed) 11:21:12

Re: 差の認識 2 / ubik0101
まあ分析すれば、です。ほかの誰かが死んでも、自分は生きてる、これだけなら、「自分は特別」かもしれません。そして、自分が死んでも誰かは生きてる。これは自分の儚さ、「自分は凡庸」ではないでしょうか。

つまり、自分は特別と、自分は凡庸、が入り交じって混乱してるのかもしれません。その混乱の基礎として、たぶん自分が生まれる前からも、死んだ後でも、世界は継続してる。という気分、感覚、観念、があるのかもしれません。

そこで実に、その思考をしてるのに気がつかない、過去、未来とかの時間の観念が「その意識しない基準」暗黙の前提になってる。つまり因果。ってこととも見れます。だって、そんなことに縛られなければ、自分だろうが誰だろうが、その生きる前とか後とか、どうでもいいです。になります。

ここも、いろいろ表現はあるでしょう。必ずしも誰かが言った表現を辿る必要はないです。それを意識化してなくても、解ってる、ということもあります。意識化する途上で、思考の性質とかを学んで、それも大切。もあります。

それで、ナスをサラダオイルで炒めて、トマトを投入、醤油、コンソメ顆粒を散らして、ちょい煮てみました。これが、なかなか、です。パスタソースみたいですが、ご飯にも合います。

No.3554 - 2011/07/13(Wed) 12:46:02

Re: 差の認識 2 / hato

今日の晩御飯は、香ばしい醤油の香り、生姜入り茄子ステーキにしました。トロトロ茄子は、なんて美味しいんでしょう。秋茄子でもいいかな・・と思いました。

自分の死んだあとに、世界が継続してる・・・してない・・・ということを、殆ど考えることができません。どうしようもなく、ある意味、そこは断絶していながら、なにか継続は、今ここで機能として辿られる・・・との感じです。

それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。


すこし前の暑い日、森林公園に行きました。ホトトギスが鳴いて飛ぶのを初めて見て、わりと大きいのに驚きました。能楽堂のような、森林に囲まれた休憩所があって、今度は、お弁当を持っていこうといってます。

No.3555 - 2011/07/13(Wed) 23:41:05

Re: 差の認識 2 / peer
>それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。

うんうん。
えーと。たとえば「無知」という言葉があります。
アンタは無知だ。と言われると、反応したくなるようですが・・・
侮られた〜みたいに。でも、違うんですね。
無知と言うのは、あんがい素晴らしいコトで〜状態で〜
無知だからこそ、どれほどの可能性を秘めているか。です。
無知だからこそ、無茶が出来る。なんでも出来る。無限大。

まっ。長く生きていくと、経験と知識に凝り固まって
「この程度だ」と、自分のすることが狭まります。
する前から「これは無駄だ」とかね。「失敗する」とか。
計算して、自分は賢い、と自惚れるのみで・・・。

子供の頃はナスは好きじゃなかったです。味がない。
ダイコンもそうですけど。でも、味がないから〜
どんな味にも成れるんですね。どんな料理にも使える。
アッサリも美味しい。コッテリも美味しい。
しっかりした主役にも成れるし、脇役としても貴重。

No.3556 - 2011/07/14(Thu) 02:49:34

Re: 差の認識 2 / hato

こんにちは。昨晩は、久しぶりに海に行きました。満月の夜風は、さやさやと心地よく、仕事のあとですこし疲れましたが、気持ちよかったです。隣の親子がタコを釣って、「魚釣りにきたのにタコが釣れちゃったよー」と言ってました。


>それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。
>
> 無知と言うのは、あんがい素晴らしいコトで〜状態で〜
> 無知だからこそ、どれほどの可能性を秘めているか。



無知。たとえばその「知」、たとえばその「無」、をどこに見るか、それを言った人、受け取る人、同じでないとして、ほかの人とのやりとりでは茶飯事でしょう。そこで、もし、ほかの人の意図にことさら、関係ある・・ない・・でもなく、折々自在に受け取って役立てられるなら、とても幸せなことでは、と思います。


> まっ。長く生きていくと、経験と知識に凝り固まって


そうですかー。その意味では、否応なく凝り固まれず・・・否応なく是新たに人生です。忙しくなく忙しい・・・な具合でしょうか。

森林公園の能楽堂のような休憩所からの景色です。山中の静けさがとても気に入って、ひと休みしました。

No.3557 - 2011/07/15(Fri) 11:18:42

Re: 差の認識 2 / peer
>無知。たとえばその「知」、たとえばその「無」、をどこに見るか・・・

最近、晩婚の友人に子供が誕生しまして。
子供って無知の究極でしょう〜
それなのに、ただニコッと笑うだけで周りに幸福感を与えます。
というか〜もともと沢山〜与えるモノを持って生まれてくる。
知識で、豊富な体験で・・・とリキまなくても充分なのだわ。
な〜んて感じた次第。
ヘンに智慧がつくと、ただただ小賢しい〜みたいな〜
まっ。そこから争いみたいなものが生じるのね。というのも。

No.3558 - 2011/07/17(Sun) 03:07:28

Re: 差の認識 2 / hato

> 子供って無知の究極でしょう〜
> それなのに、ただニコッと笑うだけで周りに幸福感を与えます。
> というか〜もともと沢山〜与えるモノを持って生まれてくる。



生まれたての赤ちゃんは、ミルクの甘い香りがして、本当にかわいいですね。無知というよりは、無垢、がぴったりな感じがしますね。そうした体感に、日々の自分との差をみて、癒されたり、気付かされることがあるのかも知れません。

といって、我が家はふたりとも、子供に殆ど興味がありません。とくに子きらいでも、苦手でもないと思いますが、子供がほしい、と思ったことがないのです。自分は、とあるお母さんが、とてもかわいい子供を育んでるのをみても、その子がとても自分に懐いて、互いに大好きになって、膝に乗せて遊んでも、自分の子がほしい、とは思いませんでした。羨ましいと思うこともないのです。

夫がいなくても、妻がいなくても、子供はほしい、という人もいるのに、生物学的には問題かも知れませんね。皆がそうなら、絶滅してしまうのでしょうか。人生いろいろですが、きっと、自分がこどものようだからでしょう。

そうですね。子供は、溢れる可能性や、無垢ということを、しみじみ気付かせてくれるとしても、やはり人は成長して、その子供に帰る、ということではないと思います。知恵がついてる自分がないなら、知恵があっても、無垢でしょう。

ブライダルベールが、ハート型に見えました。

No.3559 - 2011/07/17(Sun) 23:10:33

Re: 差の認識 2 / peer
>無知というよりは、無垢、がぴったりな感じがしますね。

んんーーーと。
無垢では、面白くないんだなぁ。
無垢だと、純真とか天真爛漫とか、肯定的に受け取りやすい。
無知と見ることで、違うものが見えて来るワケで〜

子供と母親の関係は、なかなか複雑です。
赤ちゃんをジッと見ながら授乳すると五分に一度。
母体血中にオキシトシンというホルモンが分泌。
このホルモンは「特定の相手に対して愛着の形成を
促進するホルモン」とされています。
これによって「人の信頼度を高める」ことになるようでして。
他にはアルギニン、バソプレシンというものも。
たとえば、これを人工的に止めると、夫婦円満で知られる
ハツカネズミの一夫一婦制が、壊れるらしいんですね。
つまり信頼感が失われ、愛着が形成できなくなる。

オキシトシンは他にストレスホルモン分泌を抑制する
作用がありまして、赤ちゃんに授乳させているお母さんが
幸せそうに見えるのは、ここにも原因はありそうです。
夜泣きしようと、ダダをこねようと〜
ストレスを感じないように。自然は、よくしたもので・・・。

まっ。人間って、動物って〜
ホントにホルモンによって左右されるのだわ。と感じます。

No.3560 - 2011/07/19(Tue) 02:57:09

Re: 差の認識 2 / hato
> んんーーーと。
> 無垢では、面白くないんだなぁ。
> 無垢だと、純真とか天真爛漫とか、肯定的に受け取りやすい。
> 無知と見ることで、違うものが見えて来るワケで〜



なるほど、笑えました〜。peerさんはつねにチャレンジャー精神なのかも知れません。


微妙に繊細なところですが、たとえば先の話の、有無の無、でない・・・とは、この世界のなにか状態、なにか状況に照らし合わせて見ることが、とても難しいところです。世界の何かと辻褄を無理に合わせるとしたら、誤謬があるというより、なにかちぐはぐになるものかも知れません。

そして、言葉。たとえば、無明無知と、不可知或いは、未知。指し示すところは違うこと。いつかのお話ですが、言葉は摩訶不思議で、言葉自身がすでに、自ずと意味を得ているでしょう。熟語としてもそのようです。人が使ってこそ、意義を成すけれども、適正な意味が、自ずから備わっていますね。とても不思議です。

その上で、人の趣意に多く拠って利用可能なところ、そうでないところがあるでしょう。そんな感じです。


> まっ。人間って、動物って〜
> ホントにホルモンによって左右されるのだわ。と感じます。



ホルモンが先か、人が先か、はたまた・・・
というところはやはり、鶏と卵のような、お話でしょか。。

ubik(ユービック)ならぬ、yobick(ヨービック)。ubik0101さんと笑ってしまいました。ときどき、飲みます。

No.3561 - 2011/07/20(Wed) 01:34:05