こんばんは。ubik0101さんがパート4に続けてくれたので、時間をおいての返信です。
>体感、感覚、それをある意味統括する、意識への強い依存。
>えーと。 >氷の近くに手をかざすと、冷たい冷気を感じます。 >火の傍にいると、燃えるように熱いですよね。 >そんなふうに存在を熱で感じる人もいるし >波動のようにピリピリとしたり澄んだ透明感などのように >重さのようなものとして感じる人もいるようです。 >そういう普通の感覚は「気のせい」と片付けて >わざわざ意識しない人もいる。まぁ。そういう話です。
人がいつも、とくに焦点を合わせやすいのは、感じる、体感、というところですね。それしかないといえばそうとして・・・たとえば人の機能の根だとしても、感覚とは大変面白いテーマであっても、偏重されてるところでの意識の向き、といえるでしょう。そこを一旦きちんと抜けたときに、知覚自体が、道具としての位置を得るでしょう、との話ですね。世界を超える、ということ。失われる、という話を、以前しましたね。その度合いもありますが、抜ける、とはそういうことでもあります。
必ず、その意識の照準が変わるでしょう。
人は感じることを意識する、或いは、意識されますね。意識とは厳密に、単に継続の意味でなく、機能のいくつかを渡して、あるものです。人が偏りを脱してないとき、意識されてるところの世界に、過剰に依存している状態です。感覚は根にあり、人を魅了しますね。世界はその方法で、人を引き付けてやみません。けれどその感覚も、人が中道を得て、漸く、人の道具としての位置を得ることができます。
感覚が鋭敏というと、素晴らしくなった感じがあるかも知れません。見えないものを見ようとして、とても修行したりしますね。でもこの方向では、すでに偏重があるでしょう。どんなに精妙で素晴らしいとしても、あるようなないようなその自分であり、知覚過敏とは、病です。感覚的なことにとても嗜好が向くとしたら、危ういところがありますね。
そして、けれどここで尚、拘りにこだわらず、こだわらずに拘って、まずは、それであること、を学びいくとしたなら、そうしたことは、香りよきエッセンスになると思います。
>自己とは必ず、世界を超えるものであり
>えーと。えーと・・・。 >世界は超えられるようなものなのかしら? >世界は私で、私は世界〜感覚ってありますが。
ほんとうに。感覚としては、そのようかも知れません。感覚とは、世界のこと。そして、世界を超えるとは、人です。 ここで、超えるとは、感覚が、なにかスーパーになるわけではないですね。たとえば、宇宙開闢からの過去や未来を見渡せる・・・そんな風に、考えられているのかも知れません。ロマンがあります。何歩か譲って、そうしたこともあるとして、その理解と、その先に、きちんと行き渡ることができると思います。
本当に経験されたとき、世界のなにかに照らし合わせられる必要はないでしょう。ただ、その経験が理解されやすいように、感覚と意識に、或いは知覚的なところで、人はそれぞれの形式、或いは内容でもって、見ることがあるのかも知れません。
こうしたことは、成されたとして、人生の事象として、なにが変わるかといえば、大して変わらないかも知れません。聖人でもスーパーマンでも・・・一見してとくにできた人でもなく・・・または、そうであるかも知れませんが・・・どうでもいいのでしょう。仕事の有無・・・家族の有無・・・有名無名・・・無関係です。
ただ、それはどうしても、それであることによってしか理解されることがないでしょう。ですが、その果実にあるかということは人にとって、大事なことだろうとしか、いうことはできません。
|
No.3575 - 2011/07/29(Fri) 00:51:29
|