| んーと、この日常で、自我も無我もないです。起きてることだけが自覚されて、それを自覚する中心が、どこにもない、というのも、ないです。もちろん、それは、中心が、ある、でもないのです。
それで、説明すればですけど、あるでも、ないでも、どういっても誤り、ということです。そう区別して表現するとしてですが、自我あって自我に依存できず、無我あって無我を超え、ということです。
と、いうことを概念として思考しても、その中心が、ないでも、あるでも・・・どちらの偏りも・・・ない、ということです。これが人の日常です。
>起きているコトだけがあって、どこにも中心がない。 >そんな感覚なんだけど〜
もしかして、それはsrkw仏陀さんのhpで読んだことがあって、うろ覚えですが、《人無我》かもしれません。それは《法無我》と補完しあうようです。そこで《人無我》状態で、《法無我》の意味を探索してもいいのですが、ちょっと違います。自分の有り様を真摯に正確に認識することで、です。
>うん。後から、その概念が追い付いてくるような感じ。 >何が起きたのかを考えて、理由づけるみたいな。 >その時は、その瞬間は・・・分別がない・・んだろうなぁ。 >自分の視点あるときは、、、それも、、また妄想のひとつか?
そ。自分の視点がないときは、、、それも、、また妄想のひとつか?です。まさに道は・・・この光あふれる、風、緑の木々、蝉の声・・・この日常・・・目前にありです。
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No.3604 - 2011/08/03(Wed) 14:36:35 |