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記事No.3618に関するスレッドです

差の認識 4 より / peer
>消えたんです。ホワイトアウトしたのです。
・・・・
>神は消えるんです。まだ距離がある間は、その神の概念を感じられるのです。

うーん。なんだろうな。。。こんな場合わたしの感覚だと
自分のほうが消える。見ている視点がない。
ような気がします。
起きているコトだけがあって、どこにも中心がない。
そんな感覚なんだけど〜

うん。後から、その概念が追い付いてくるような感じ。
何が起きたのかを考えて、理由づけるみたいな。
その時は、その瞬間は・・・分別がない・・んだろうなぁ。
自分の視点あるときは、、、それも、、また妄想のひとつか?

No.3603 - 2011/08/03(Wed) 12:15:21

Re: 差の認識 4 より / ubik0101
んーと、この日常で、自我も無我もないです。起きてることだけが自覚されて、それを自覚する中心が、どこにもない、というのも、ないです。もちろん、それは、中心が、ある、でもないのです。

それで、説明すればですけど、あるでも、ないでも、どういっても誤り、ということです。そう区別して表現するとしてですが、自我あって自我に依存できず、無我あって無我を超え、ということです。

と、いうことを概念として思考しても、その中心が、ないでも、あるでも・・・どちらの偏りも・・・ない、ということです。これが人の日常です。

>起きているコトだけがあって、どこにも中心がない。
>そんな感覚なんだけど〜


もしかして、それはsrkw仏陀さんのhpで読んだことがあって、うろ覚えですが、《人無我》かもしれません。それは《法無我》と補完しあうようです。そこで《人無我》状態で、《法無我》の意味を探索してもいいのですが、ちょっと違います。自分の有り様を真摯に正確に認識することで、です。

>うん。後から、その概念が追い付いてくるような感じ。
>何が起きたのかを考えて、理由づけるみたいな。
>その時は、その瞬間は・・・分別がない・・んだろうなぁ。
>自分の視点あるときは、、、それも、、また妄想のひとつか?


そ。自分の視点がないときは、、、それも、、また妄想のひとつか?です。まさに道は・・・この光あふれる、風、緑の木々、蝉の声・・・この日常・・・目前にありです。

No.3604 - 2011/08/03(Wed) 14:36:35

Re: 差の認識 4 より / ubik0101
と、いうことで補足です。

それで、見る聞く観察する、その中心が、あるない、と言っても、その中心、その正体は、何?あるないって、何?そもそも世界って、何?を追求することは必然でした。それが何かが明確でないで、中心がないと感じても、思考しても、これ、そのことが、何?これは微細な思考で、注意深く粘り強く探求しなければならないと思います。探求は、ほとんど不可能かもしれない、と感じる、そこ、それを、です。

それは世界とか意識、知覚とかいうブラックボックスを使うというより、それを開ける感覚です。 なんかビデオゲームのように、ずっと遠くで動かしたスイッチが、ほかのところで効いてくるといった・・・一筋縄ではいかない・・・そんな感覚を幽かに感じながら・・・思考する。その思考って、どんな機能、特性があるのか・・・ それで、思考が消える、その消えてる思考は、どうなってる?

たとえば、知覚にとって、ない、ということが、ほんとーに厳密な意味で、ない、か?とか、手掛かりはあるので。もう、自我とか無我とか言ってられない、どんなに迷ってもいい、総て崩しても、とにかくやってみよう。そこで使えるもんだったら、自我の機能だって使おう。ふつうの日常の意識で。大雑把に言えば、こんな感じです。

人無我、で検索してみました。

http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/51710411.html

No.3607 - 2011/08/05(Fri) 09:46:50

Re: 差の認識 4 より / peer
>この日常で、自我も無我もないです。起きてることだけが自覚されて、それを自覚する中心が、どこにもない、というのも、ないです。もちろん、それは、中心が、ある、でもないのです。

まぁ。なんつーか。過去の記憶というものは、自己解釈にすぎない。みたいな感じなのですが。
記憶って、完全に書き変えていたり、妄想だったり、いい加減な物じゃないかな〜と。
昨日の事、一昨日の事、一年前、三十年前。過去、記憶している事は本当にあったことなのか。
そこまで行かなくても、記憶として覚えているのは、どうしてか。
ほとんど忘れてしまう・・・でしょ?。昨日の事も、三十年前のことも。特別に記憶力の優れた人はいますが。
記憶というのは感情と一緒になると記憶しやすいものなので、感情と切れていると、忘れやすいし。
嬉しい・悲しい・恥ずかしい・楽しい。と結びつくと、記憶される。
そういう記憶は、何度も思い出すから、忘れにくいんですよね。
しかも、何度も思い出すたびに、書きかえられていたりする。今に、都合良く解釈され直され。
記憶情報(空間情報)というのは、石でも草木でも、持っているらしいです。
そこにアクセスできる人が言う事も、それも自己解釈である可能性であるような気もするし。

No.3609 - 2011/08/05(Fri) 12:24:21

Re: 差の認識 4 より / ubik0101
たとえば、シャツの洗濯、蝉の声、積乱雲・・・ここで静かに座っていても、エンジン草刈り機を使っていても・・・よーするに、見る聞く。行動、発言、思考。それは、言ってしまえば、過去もない、未来もない、そして、いまここ、もない・・・その意味としては、過去も未来も現在も、どんな解釈も不可能、ということです。それで、日常が神秘、世界の不思議に気がつきます。

なのに、この、ただこうある日常・・・一切・・・それを、なにか不満なのでしょうか。束縛と見なして、それから逃げたい・・・そんなことも自我の機能ともいえるかもしれません。それで過去に、未来に逃げて。それらを解釈することは、それらを作り変えてるのでしょう。 なら、いまここも作りかえるでしょう。

たとえば人間関係の葛藤。 それは他から被ってる、受動。 ということで、しかも苦痛ゆえに、現実のように感じるのですが、それは、そう自分で解釈してる、自作自演の結果ってこともあるでしょう。それと、記憶を作り変えてるとして、そうしてることが自覚できないなら、とても愚かさに捕らわれてるのでしょう。そうでもなければ、作りかえる理由はないかもしれません。 これも、ひとつの自我の経緯です。

それで、どんな経緯だとしても、自分を知る。たとえば、自我は虚構、と了解する。このことは、作用として解脱です。だから大事なのです。そこで、その自我という、自己、の代用、補償作用が不要になります。無理に、なにか解釈して、この不思議、神秘から逃れたいことを要することがなくなります。この、あるいは静かな、中道と呼ばれる激流に安らぐ、です。

ネットで見たのですが、人それぞれ、さまざまな経緯と体験があります。なにかの虫が自分だったり、ほかの誰かが自分だったり、自動車が自分だったり・・・それを体験することで、その完全燃焼で、反応の範疇を超える。そんな体験もあるようです。

しかし、知覚の範疇にない・・・自己。そうならば、《ひとつ》でも、意識と無意識の融合でも、光の体験でも、世界が消えようが、自分が消えようが、なんだろうが、その特定な体験が問題ではないです。その体験で一切を解釈しては、誤りです。大事は、解脱です。体験を意識化するとして、素直・・・真摯に正確・・・に、理解しなくては、解釈になります。

それで、オクラホマミキサーの話は、日常意識がそこに追いついたので、思い出したのだと感じています。それは、こういう対話がなければ、忘れられたままだったかもしれません。おおくの人に、そいうことがあるかもしれません。

No.3610 - 2011/08/05(Fri) 21:26:04

Re: 差の認識 4 より / peer
>それで、オクラホマミキサーの話は、日常意識がそこに追いついたので、思い出したのだと感じています。それは、こういう対話がなければ、忘れられたままだったかもしれません。おおくの人に、そいうことがあるかもしれません。


そう。自分にとって覚えておきたい記憶は、意識的に覚えている。
しかし、そんなふうに、何かの切っ掛けで思い出す事は。
もしかしたら、自分のため。ではない。のかもしれない。
思い出すべき記憶は、その準備が、その場に整っているかどうか。
・・・なんてことも、あるかな〜と。
その場のため、誰かのため、自分のため。の三位一体・・・。

No.3617 - 2011/08/08(Mon) 13:54:04

Re: 差の認識 4 より / ubik0101
ま。それはそれとして。自分はいなくても、世界はある、も。自分がいないと、世界はない、も。どうでもいい。そこで、 こんな疑問?が生じました。この世界がなくても、自分は、ある?

いつかゴミ捨て場に捨てたのであろう種から発芽した南瓜が、栄養がいいのか、日に日に生長して。ネーブルの木に這い上がって、花が咲いて結実(左が南瓜、右がネーブル)しました。

No.3618 - 2011/08/08(Mon) 18:35:06