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記事No.3674に関するスレッドです

はじめまして / サオリン
はじめまして。

HP拝見致しました。
文章の裏側に深い意味があり噛み締めるように拝読させていただいています。

私という自分が無くなり、全てが愛で満たされているという世界を体験してみたくて、瞑想、自我のお掃除、ワークなどここ数年してきました。

数年前に比べたら、比べ物にならないくらい生きるのが楽になりました。

でも一向に自我は、なくなりません。

>ただ自分の
行動、発言、思考を学ぶのです。
そうすれば、
覚醒、悟り、光明、超意識、至高体験
などと呼ばれていることが、
日常生活の中で、
突然に起こります。 

この文面にあるようにとある一日を根気よく観察しました。
愕然としました。
今までこんなにも自分を内観してきて苦しみ、自由になってきたと思っていたのですが、全てが自我に始まり自我で終わるのです。

ひとつひとつの行動が、思考が、感情が。


結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?
自我に気づくことなくとも、自我があるということさえ知らない人でも至高体験をする人はいるのですよね。


私は本当の愛を知りません。
知っていると思っていましたが、本当の愛を知らない。
自分の子供を愛していると思っていますが、もしかしてそれは本当の愛でないかも知れない。
果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?


何だか虚しくなって話す相手もなくつい書き込んでしまいました。

No.3663 - 2011/09/09(Fri) 09:10:10

Re: はじめまして / ubik0101
はじめまして。

それは、自我がなくなる体験というよりも。ない。その自分の構造を見る、体験でした。また、なにかの体験をしたいということで、始めた探究ではありません。 まだubik0101が子供の頃。まだ若かったのでしょう、父の弟が死にました。

それで母に訊ねて、「僕も死ぬんだ」ということを知って。死んだら死んだということも判らなくなる、と思って。それが底知れない恐怖でした。でも、もしかして、死んでも壊れない何かが、自分の中心にあるかもしれない、それを探そう。という衝動で、始まったのです。

そこで、自分の中心に向かうためには。 なにか迷ってるとして、その迷いの内容を見るのではなく、その迷ってる自分の状態の原因を探査しました。自分が自分だと思ってることの、隠れてるゆえに正当性がある前提を見つける。すると、その自分が自分だと思うことは、その正当性が保てなくなって、消える。さらに深く探る。闇雲ですが、できることも、ほかになかったのです。

たしかに・・・片思いばかりしてましたが・・・生活の基本がそこにありました。それが、いわゆる自分を知る方法として成立してるのかも顧みたこともなく、その結果、なにかが起こるということさえ知らなかったのです。その、あれこれ迷い探ったことは、その体験が起こったときに、なにが起こってるのかの自覚をもたらせてくれたと思います。

この意味で、役に立たないことはなにもない、です。たとえば、そいう体験をしたいと望むことも・・・そんな、その自分の前提を探ることもできるでしょうし・・・また、自我がなくならないならその、自我、ってなんだろう?その定義を緻密にすること・・・その思考を見つめながら同時進行で、ワープロなどで書き出すことを、お勧めしますが・・・も役に立つと、感じます。

>結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?

たしかに意識できる範囲としては・・・その努力に関係なく、関係なくもなく・・・その体験が突然に起こったので。どんな理由もつけられない、できても後付けなので、恩寵、と感じました。でも、怠惰も、努力も、嘘も、誠実も、善も、悪も・・・そんな紆余曲折の経緯の総てがなければ、それは起こらない・・・そんな印象がありました。

>果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?

もしかして、欲望のことを、愛と呼んでるのが現状かもしれません。それは愛の代用品、影、かもしれません。たしかに、それを知るまでは・・・この知るという言い方は、かなり変なんですが・・・恋のことを、愛ではないと思いもしてませんでした。

でも、そんな執着も、自我も、世界の機能なんです。そう思い切れないなら、探究の途中で諦めてはないってことだと思います。でもやはり、愛を直接に求めての探究は、困難かもしれません。これも変な言い方なのですが、自分を知る、これが総てをもたらすのだと思います。

No.3664 - 2011/09/09(Fri) 12:39:54

Re: はじめまして / ubik0101
上の投稿は、hatoではなく、ubik0101でした。なぜか勝手に表記が変わることがあります。訂正しておきました。
No.3665 - 2011/09/09(Fri) 13:47:08

Re: はじめまして / サオリン
ubik0101さん

お返事ありがとうございます。

私が至高体験を望むのは、覚醒を望むのは、
結局のところ、
自分の正しさを証明したいのだと思います。
純粋に自分を知りたいというよりも
日常の数々のトラブルから逃れたい。
もうこんな人生はいやだ、こんな世界はいやだ、
逃れたい、放棄したい、そんな気持ちからです。多分。

それであれこれ学んでいくうちに、私には愛が無いなぁと感じたのです。いつでも条件付の愛です。

すべてが愛であるという、愛しかないという世界があるなら体感してみたいと最近強く思うようになりました。

でもなかなか思うようにいきませんね。
それも執着しているからでしょうか?

あせらずじっくりですね。

No.3673 - 2011/09/11(Sun) 12:52:41

Re: はじめまして / ubik0101
>それも執着しているからでしょうか?

そうですね、そんな執着が障害であり、その同じことが道を開いてくれると思います。それから逃れるのではなく、それを飼い殺しにするのではなく・・・その執着の源を見るために・・・それに、どこまでも切り込んで行く、そんな情熱が飛躍の力を付けてくれます。

たとえば、自分の正しさを証明したいというのは、ほんとうには正しくないから?とか。どんな正しさ?とか、そもそも正しさって何?とか、その自分って何?とか・・・ほかの人からは、いろいろ言えるのでしょう。けど、その自分の探究は、その、その自分が疑問を感じてするしかないことです。とくに自我の問題は、この自分がやらねば誰がやる。です。

そして、それができます。「あせらずじっくり」の思いも不要なくらいに。この見えたり聞こえたりしてる、呼吸したり暮らしたりしてる世界を信頼していいです。自我は自我を研究できるようにできています。それさえ解決すれば、ほかの人がどうであれ、社会の現状がどうであれ、無関係に、生死の問題も、総て解決。なぜかは判りませんが、そのくらい、この自分は、この自分に任されてあります。

だからどうだということではないのですが、ubik0101の場合は、その日の思いを実況中継で総て書くつもりで日記を始めてから、たった20年でした。なにか思考が消える・・・もう一段それまでの地平を掘り進んだ。そんなことが毎日のように幸福感をもたらせてくれたりもしました。そして絶対不自由の絶望も。その瞬間前まで、なにかが起きることの予感もなく、這いずり回っていたのです。

この庭のあちこちにある、たますだれ(ゼフィランサス白花)の群生が、いっせいに咲いています。

No.3674 - 2011/09/11(Sun) 16:37:11