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記事No.3692に関するスレッドです

ごまかし / ソルト
若いころ、大事な価値観があって、うまくいかないことが起きて、苦しみます。
ところが、あるとき、大事な価値観を捨てても、自然な生があるのを見出して、楽に生きることができることがわかります。
ところが、そこで、適当な価値観を見出して、いまの立場を利用した、いい加減に生きることを覚えます。
そして、世界を認めれば、何でもありなんだよと言います。

No.3681 - 2011/09/15(Thu) 15:35:45

Re: ごまかし / ubik0101
まずは、主語がない文章なので質問します。ソルトさんの投稿は、ソルトさんの状態を説明してるのでしょうか?

そうでなく、そんな特定の、あるいは不特定の誰かがいるよ、と話してるのでしょうか?

またはソルトさんが、ubik0101は「・・・そして、世界を認めれば、何でもありなんだよと言います。」と、思ってるのでしょうか?

ところでubik0101には。若いころ、大事な価値観があって・・・苦しみ・・・価値観を捨てても、自然な生がある・・・とかの経緯はありません。それに、世界を前提にするとしても、中道です。

No.3683 - 2011/09/15(Thu) 21:06:00

Re: ごまかし / 咆哮
なんとなくです、気になさらず
ソルトさんにちなんで

波が満ちては引きます
失って得るものはなんでしょうか?

No.3687 - 2011/09/16(Fri) 04:20:02

消えた思考 / ubik0101
ちょうど、そのテーマに移ろうとしてたところです。なにかを了解します。すると、その思考は消えていきます。その消えた思考は、どうなってるでしょう?

それは、たとえば何かを食べたら見えなくなる。それは人の血や肉になったからです。というようなことで。なにか、あれこれ思考や感情が現れては消えていくのを見ることとは、違っています。

たとえば、無我・・・その概念、その有り様、印象・・・と自分が接近して距離がなくなったら、無我が失われます。そこで、それと距離があって、無我を対象にしてた、ここでは残響のような自我とも呼んだりしますが、その自分も失われます。

それは無我の対としての、自我も一緒に失われるということです。これが、自我もなければ、無我もない、です。これは青い空、鳥の声・・・この明るい世界を見れば一目瞭然です。自我と無我の区別がないところ、です。 ほかの言い方では、自我も無我も失って、偏りなく、満遍なく、その総てを得た、とも言えます。

たとえとしては、光の三原色R(赤)、G(緑)、B(青)を重ねると透明になります。それは色が、ない、のです。けど、闇ではありません。光が満遍なく、赤や緑や青に分けられずに、ある。から特定の色としての赤や緑や青が、ない、です。

続きます。

No.3688 - 2011/09/16(Fri) 10:07:47

Re: 消えた思考 / ubik0101
けどこのことは、 もともと、自分が自分にあっては、その距離がないので、自分が自覚できない、この意味での、自分がない。という了解が奥にあります。自我が、ない。という意味での無我とは、ちょい違います。

これは、知覚できないゆえに、ある。おなじことですが、ある、ゆえに知覚できない。です。くり返しますが、自分が、ない、という無我さえ対象になり得ます。それは、距離があり、そうする自分が生じていて、自我と無我との比較があったりして、面倒なのですが意識が、それを経緯して、自分が、ある、さえ対象にする必要がなくなります。

>波が満ちては引きます
>失って得るものはなんでしょうか?


なにか知覚でき得る、もの、こと、だけを見るのなら・・・それは世界の七つの海を得るのです。でも、それよりも、それを得る、自己。それが大事です。なのに、逆は真だと見なして。では、怒りを消すには、因果を消すには、どうしたらいいでしょう。簡単です。怒りでありきれば、因果でありきればいいのです・・・としても、かなり困難なのです。

たとえば時間はありません。過去も、未来も、現在もない。その、そのことは、自分が時間、だということです。なので、概念としての時間がないのです。としても逆なので、困難なのです。もの、ことは、世界は、そうでなくてもいいのに、そう、だということです。これは、なぜ、これ、です。その見えない自分が大事です。

No.3689 - 2011/09/16(Fri) 10:12:18

Re: 消えた思考 / ubik0101
補足です。

この世界の範疇なら。総てを得ると言っても、なにも得ないと言っても、そう変わりません。どちらか片方だと見なすと、解釈になります。世界の総活動は、不増不減だからです。

それよりも、大事は自己です。それは、自分が自分であれば、距離がないので、自分が自分を知覚できない、といったことではありません。自己は、知覚の範疇にはありません。それは初めからそうだ。でも、あるとき生じる。でもありません。

No.3692 - 2011/09/18(Sun) 17:51:55