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記事No.3706に関するスレッドです

陽動作戦 / ubik0101
たとえば特定の、あるいは不特定の誰かとか、社会の機構とかを、非難することがあるかもしれません。そうだとして。なにかを非難するとして、その自分を正当化しないとすると、かなり困ったことになるかもしれません。

まず、その非難正当化する思考や感情そのことは、誰が誰を非難正当化してると、識別ができるでしょうか。誰であれ、同じような立場や環境であれば、同じような非難や正当化をするかもしれません。つまり、その人そのことの固有の運動ではないでしょう。

それなので、なにか非難するとして、その非難する姿勢の射程に、そうしてる自分もはいるでしょう。そこで何かを非難する人は、正当化で守らねば・・・自己保存しなければ・・・自分を非難する、そんな悲惨なことになるかもしれません。

なので、誰かなどの行動、発言、思考に対する非難と、自分の行動、発言、思考に対する正当化は、対にならざるを得ない、と見ることもできます。

そして人が、その片方だけ、たとえば非難だけ、あるいは正当化だけ、であるのは困難ではないでしょうか。ここで非難を止めてみれば、正当化も止むでしょうか?正当化をしなければ、非難が止むでしょうか?・・・YES、だとしても、それは顕在意識の範疇、あるいはそいう規範ができてのことかもしれません。


続きます。

No.3703 - 2011/09/22(Thu) 23:20:24

Re: 陽動作戦 / ubik0101
それで学校、会社、家庭、地域・・・生活のほとんど総ての人間関係が、そのような非難、正当化の舞台になるでしょう。さてここで。そいうことを観察して、それが何になるでしょうか?たとえば、それが自分を知る(とても変な言い方)に繋がるでしょうか?

その非難と正当化は、誰彼に固有のことではない、それなら、それをいくら調べても、まったく役に立たないことはないにしても、自分を知る、ということには直接には繋がらないかもしれません。問題は、誰彼に固有でないのに、たとえば自分に固有な運動だと見なしてることにあるかもしれません。

もしかして、非難、正当化などの・・・いわゆる心理的な思考・・・を調べる、検討する、観察するということは、自我の陽動作戦。つまりトリック、おとり、自我から眼を離すための偽装、なのかもしれません。たしかにそんな観察そのことは、その種も尽きず、初めも終わりも判らない、迷いではないでしょうか。

続きます。

No.3704 - 2011/09/22(Thu) 23:22:49

Re: 陽動作戦 / hato

みどりの庭には、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。なにかこわい様子の花です。今年も裏庭に、たくさん咲きました。

No.3705 - 2011/09/22(Thu) 23:32:18

Re: 陽動作戦 / hato

もうすこし、曼珠沙華です。

石垣の手前に、ひっそり咲いてます。

No.3706 - 2011/09/24(Sat) 22:01:09

Re: 陽動作戦 / hato

桜の木の下にも、いくつかあります。

花びらは、ベルベット地のようです。こうしてみると、なにかこわそう、ながらも、きれいです。

No.3708 - 2011/09/24(Sat) 22:19:31

Re: 陽動作戦 / ubik0101
では、どうすればいいでしょう?もし何かを非難するなら、思いっきり非難するがいいです。その相手に罵詈雑言を浴びせればいいです。また、じっと我慢するなら、どこまでも我慢すればいいです。 そして、返す刀で、その自分の有り様を、というよりも、その自分の有り様の前提を、自分で探査すればいいです。

というのは、自我は、ほかの人の指摘を聞かない、受け入れないのです。 もしも、ほかの人が、自分の自我な行動、発言、思考の急所を完全に突いたとしても、自我に止めを刺すことはできません。必ず自我は逃げます。それは、自分でやらねば、ならないのです。

たとえば、どこかの誰かの非難と正当化を検討して、そうしてる自分を勘定に入れない、つまり観察者であること、傍観者であることは・・・非難と正当化を共に対象にして、そこに巻き込まれてない・・・そうである自分の正当化です。その正当化のために観察、検討が必要とされます。

そして、もしそれを、ほかの人が指摘したとしても、それを認めることはないでしょう。そいうことは・・・まったく自分に染みついていて行動、発言、思考の基本姿勢になってて気がつかない。というそのこと、つまり無意識に、自我は隠れるのです。それは、知覚されないことは、ないことだ。あることは、知覚される。という思いこみをもたらしているかもしれません。

そんな、その思いこみ、そのことは知覚できるのです。そんな、ふつう自覚できないことの背後から現れてる思考の背後に・・・自分で、切り込まなければなりません。これは関係からではなく、たった一人で、もしかして自分はそうなのかもしれないという、微かな疑いを捕らえて、それを明確に意識して対峙せねばなりません。

続きます。

この辺りでは、村の人が総出で草刈します。そして10日ほどで草が枯れると、火を点けます。川沿いのそこここで、煙があがります。

No.3709 - 2011/09/26(Mon) 08:19:30

Re: 陽動作戦 / ubik0101
たとえば、いつも嘘ばかり言ってるので、自分が嘘つきだと気がつかない、そんな嘘つきがいます。それなら、なにか、その場その場で、急場しのぎの正当化できる理由を捏造して、そのことが、ほかの人には判らないと考えて、自分にも判らない。そんな状態なのかもしれないと。 これは関係からではなく、たった一人で、もしかして自分はそうなのかもしれないという、幽かな疑いを捉えて、明確に意識して対峙せねばなりません。

これは、おそらく人の数だけの、さまざまな有り様があるでしょう。行動、発言、思考の背後にある見えない同一化、前提、動機です。ちらりちらりと、もしかして、と思考されることなのです。すでに意識されてる、たとえば明確な非難や正当化ではなく・・・もしかして、自分は偽善者ではないだろうか?もしかして自分は権力欲に捕らわれてはないだろうか?

こんなことは正直に。そして大きく思考の翼を広げ羽ばたいて自分の闇を飛び回り探さねばなりません。くり返します。明確な、非難や正当化、それは、自我のフェイク、偽装工作、陽動作戦であり、意に介する必要はありません。それよりも、とくに意味を見いだせないほどの普通の日常。それを掘り下げるのです。

これは、止めることがない血と汗と涙の努力が必要です。どこまでも自分を顕わにしなければなりません。しかし、ほかの人からの指摘にしても、自分で自分に切り込むとしても、自我の急所を突くことは不可能でしょう。

なぜなら、自我は、ない、です。ない、には、その急所など、ありようが、ないのです。現れた、あるいは隠れた ・・・自己保存で・・・守ってるのは、ない、です。完全な解決は、自我は虚構。それが、発生する。その仕組みを知ることにしかありません。

続きます。

No.3710 - 2011/09/26(Mon) 08:33:11

Re: 陽動作戦 / hato

錦糸南天。

葉と茎が、とても繊細です。

庭の入り口あたりに、ubik0101さんが作ったかわいい盛り土が六つあって、そのひとつのてっぺんにいます。

No.3711 - 2011/09/26(Mon) 23:20:01