たとえば特定の、あるいは不特定の誰かとか、社会の機構とかを、非難することがあるかもしれません。そうだとして。なにかを非難するとして、その自分を正当化しないとすると、かなり困ったことになるかもしれません。
まず、その非難正当化する思考や感情そのことは、誰が誰を非難正当化してると、識別ができるでしょうか。誰であれ、同じような立場や環境であれば、同じような非難や正当化をするかもしれません。つまり、その人そのことの固有の運動ではないでしょう。
それなので、なにか非難するとして、その非難する姿勢の射程に、そうしてる自分もはいるでしょう。そこで何かを非難する人は、正当化で守らねば・・・自己保存しなければ・・・自分を非難する、そんな悲惨なことになるかもしれません。
なので、誰かなどの行動、発言、思考に対する非難と、自分の行動、発言、思考に対する正当化は、対にならざるを得ない、と見ることもできます。
そして人が、その片方だけ、たとえば非難だけ、あるいは正当化だけ、であるのは困難ではないでしょうか。ここで非難を止めてみれば、正当化も止むでしょうか?正当化をしなければ、非難が止むでしょうか?・・・YES、だとしても、それは顕在意識の範疇、あるいはそいう規範ができてのことかもしれません。
続きます。
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No.3703 - 2011/09/22(Thu) 23:20:24
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