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記事No.3732に関するスレッドです

好奇心とは? / サオリン
今日は、こちら関東は最後の夏日らしいです。
とてもよいお天気で気持ちがいいですよ♪

さて、好奇心とはなんでしょうか?
知りたい、もっと知りたい、探求したいという沸いてくる気持ちはいったい何?

誰よりも先に知りたい。
人よりも知りたい。
というのは、エゴですよね。

でも子供が無心に飛んでいる虫を追いかけるように何かを知りたいと思う気持ちはなんでしょう?

好奇心はエゴなのかな?と思いました。

No.3730 - 2011/09/30(Fri) 08:30:39

Re: 好奇心とは? / hato

> 今日は、こちら関東は最後の夏日らしいです。
> とてもよいお天気で気持ちがいいですよ♪



こんにちは。爽やかなコメントを、ありがとうございます。

静岡は、明け方すこし雲が厚くて、涙雨かな・・と思われましたが、日中は晴れました。鳥や蝉が鳴き、秋風がさわやかに吹いてます。


> さて、好奇心とはなんでしょうか?
> 知りたい、もっと知りたい、探求したいという沸いてくる気持ちはいったい何?
>
> 誰よりも先に知りたい。
> 人よりも知りたい。
> というのは、エゴですよね。
>
> でも子供が無心に飛んでいる虫を追いかけるように何かを知りたいと思う気持ちはなんでしょう?
>
> 好奇心はエゴなのかな?と思いました。




子供が無心に飛んでる虫を追いかけるように・・・て、なんていいんでしょう。懐かしいなにかが蘇るようです。

この自身、というところを知りたい、見極めたい。それならば、人が人というところでの希求、と思います。それが沸き起こる・・・としたら、それまでの理解に収まらないほど満ちつつある・・・ことかも知れません。

とっかかりは、好奇心。それでも、その希求が上澄みを拭うに留まらず、本気、正真正銘の本気になると、研究、とか、探求、と表現できると思います。

自我の機能。それは、眼耳鼻舌・・・心意。見たり聞いたり感じたりする故に・・・自分、があるかのように思われ、そこを持って意図できる・・・ということ。仮定されることはわるいことではありません。そして、でも、そうした「自分」として、あるわけでもない自分を探す、ことは、たいてい人は、嫌なんでしょう。自分が無い、ということは、あれこれ隠しておきながらの、損得を考えることができない、ということでもあります。

自我とは、損したり得したりしてみえる世界に翻弄される・・・というより、そうでなくては、在るように思うことができないので、たいてい、あるでも無いその自我は、守り守られることに終始します。たとえば自分より、他人。外の事象。そうしたあれやこれや、自分以外のことに向かいます。

自分の探求より、他の人のことを詮索したいなら、それは好奇心といえそうです。本来は知ることもできない、或いは、知る必要もないものを、知っていたい、知ることにしておきたい、という、我欲です。ここで愛というなら偽善です。

あるはずのない自我は、そうして外に出て行って、あれこれ理由を付けては、その自分、から目をそら逸らそうとします。周到で非常にややこしいものです。自分で自分を騙すのでしょう。それも愛だから、といってはなりません。この意味で、〜だから、はないのです。探求は、中途半端であることは危険です。


子供が飛んでる虫を追いかけるように・・・まさに、それは子供のようにあります。


その好奇心を、外部に目が向く機能すら度外視し、自分に向けた探求にしていくことができるか、否か。

誰よりも先に知りたい。
人よりも知りたい。

その我欲は道具になります。使い切るほどに、自己の探求一筋に満身正進できるなら、「・・・よりも」との思いは殆ど形を成すことができないでしょう。修行であり、鍛錬です。文字通り、それは、損得のかけらない、増減ない、ところです。増減とは、推し測られた刺激であり、人はそこに中毒することで、その自我を維持しているともいえます。

自我はもともと無いのだから、ありのままに放っておいてよい、とはならないこと。こうしたことは理解されることで、道を整備し、進んでいくことができると思います。


庭の入り口あたりに、ubik0101さんが作ってくれた6つの小さな山があって、それぞれのてっぺんに、小さな木を植えたいね、といってます。タイムや、錦糸南天・・・そしてこれは、姫ひいらぎ。神聖で美しいこの小木が育つのを、とても楽しみにしています。

No.3732 - 2011/09/30(Fri) 13:10:30

Re: 好奇心とは? / サオリン
>あるはずのない自我は、そうして外に出て行って、あれこれ理由を付けては、その自分、から目をそら逸らそうとします。周到で非常にややこしいものです。自分で自分を騙すのでしょう。

なるほど・・・
覚えがあります(汗)
お返事ありがとうございました。

掲示板を初めから拝読し終わりましたよ〜
とても膨大な量でしたが、面白かったのであっという間に拝読できました。
ちょっと気づきもいただけてうれしいです。

私が克服したいのは、もっか人間関係なのですが、
つくづく相手は自分の鏡なのだなと思います。
自分の内面を相手が見せてくてれいるのですね。
そして、自分が見たいように世界を見ているのですね。
もがきながらそんな自我をいくつ消滅させてきたことか。

まだまだ先は長そうですが、めげずに楽しんでいけたらいいな。


植物は手をかけるほどこたえてくれます。
成長が楽しみですね。

No.3739 - 2011/10/01(Sat) 18:52:52

Re: 好奇心とは? / hato

> なるほど・・・
> 覚えがあります(汗)
> お返事ありがとうございました。


こんばんは。今日も涼しく気持ちのよい日で、ゆっくり昼ねをしました。サオリンさんは、文字を読むのが苦痛でないのでしょう。とても、よかった。読むことが苦にならない方は、とても幸いと思います。不明なことも多くあるかも知れませんが、とにかく夢中で読み込むことは、のちに非常に理解を助けてくれると思います。


> 掲示板を初めから拝読し終わりましたよ〜
> とても膨大な量でしたが、面白かったのであっという間に拝読できました。
> ちょっと気づきもいただけてうれしいです。



> 私が克服したいのは、もっか人間関係なのですが、
> つくづく相手は自分の鏡なのだなと思います。
> 自分の内面を相手が見せてくてれいるのですね。
> そして、自分が見たいように世界を見ているのですね。
> もがきながらそんな自我をいくつ消滅させてきたことか。



そうですね。サオリンさんのペースで、楽しんでいきましょう。

ここは皆、様々な理解を真剣に分かち合うこともあって、対話はシビアなものもありますが、わるいことではないので心配しないでくださいね。

そうですね。上手く伝わるかわかりませんが、まず言葉の表現でいきますと、自我、というのは、人の機能である、眼耳鼻舌、が働くことに拠って、(見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり・・)することで、あたかも、主体が存在するかのように、(意識されたり意図する、心、私、自分、が、ある・・)と思われる、その、思われてるだけの自分を、自我、と表現することができます。在る、わけでもない架空の自己です。その自分(自我)は、自分が在ることを確立させたいために、自分が無い、ことに気付かないように生きようとし、結果として逆の縁起を生じます。すなわち、無いものが主体として生きようとするために、多くの軋轢、問題が生じる、ということです。(これだけですと、人は逆立ちしっぱなしのようなものです。)

なので基本的には、この自我の仕組みを経験として見る、ことを、解消、といいます。自我はなにかあれこれあるわけでなく、状態のことですね。本来は、解消は一度きりです。機能として、自分が仮定される、ことはそのままにありますが、自我が解消され、きちんと理解されたときは、理解された故の自己として、在る、ということです。サオリンさんが自我、と呼ぶのは、もしかすると先のお話に出ていた、なにか特別に秀でたい、とか、知りたい、との思いに執着してる自分、ということかも知れませんが、とくに目立った問題を感じても感じなくても、人生や関係が上手くいくいかないに関わらず、理解、解消されていなければ、人は自我と言えます。

相手は自分の鏡・・・ということは、この掲示板でも多く議論されてきましたが、もし、その理解のみに片寄るとしたら、自我無我、の状態が、きちんと理解、或いは解消されていないところでの認識、と思います。自分は世界、相手の内面にあるものは自分・・・ということだけでは、勿論、ないからです。

瞑想などでは、比較的簡単に、世界が自分であるように認識、確認されることがあるのかも知れません。ここでは、人は知覚に特化される状態を作り出しやすいでしょう。知覚=自分、としてのみ認識され、それだけが総てであること、強いては総てはひとつ、或いは、相手は自分、となるかも知れません。

これはひとつの形式であり、主に世界の関係性のなかで活かされます。なにかの局面が解消されたり、学ばれたりすることもある、ということかと思います。これだけですと、局面局面に悩みは尽きないかも知れません。なぜなら、知覚の領域を超えるのが自己であり、それを越えないところの有り方としてのみ、世界を学ぶ方法、ともいえるからです。思いやりや、多くの機微を学んだり、運動にはなりますが、解決には至らないでしょう。知る、ことのみが重要となってくるところです。


> > 植物は手をかけるほどこたえてくれます。
> 成長が楽しみですね。



サオリンさんも、なにか育てているのですね。こちらも沢山育てていて、待ち遠しいくらい、本当に、とても楽しみなんですよ。植物の場合は、生長、とも言えるのだそうです。

ドライブして帰ってきて、ubik0101さん撮影、秋の空高く飛ぶ、飛行機雲です。

No.3741 - 2011/10/01(Sat) 23:05:49

Re: 好奇心とは? / サオリン
>なので基本的には、この自我の仕組みを経験として見る、ことを、解消、といいます。自我はなにかあれこれあるわけでなく、状態のことですね。本来は、解消は一度きりです。機能として、自分が仮定される、ことはそのままにありますが、自我が解消され、きちんと理解されたときは、理解された故の自己として、在る、ということです。サオリンさんが自我、と呼ぶのは、もしかすると先のお話に出ていた、なにか特別に秀でたい、とか、知りたい、との思いに執着してる自分、ということかも知れませんが、とくに目立った問題を感じても感じなくても、人生や関係が上手くいくいかないに関わらず、理解、解消されていなければ、人は自我と言えます。


詳しくありがとうございます。
そうです、私の場合解消していたものは、数々の観念ってことですね。ごっちゃになってました。

数年前、まず、漠然とさとりたいと思ったのです。
苦しかったから。
悟ったら、覚醒できたら、この苦しさから逃れるかもしれないという動機です。

で、苦しいのは、数々の観念で自分を縛っているからだよと教わりました。
そこで、内観して観念を浄化していきました。

するとだいぶ世界が変わったように楽になりました。
でもまだまだすべてに愛を感じられないのです。
そもそも自我だらけです。
優しささえ自我です。

そこで、今度は、覚醒できないのなら、せめて至高体験をしてみたいと思いました。

今は恩寵を待つばかりですが・・・汗

>これはひとつの形式であり、主に世界の関係性のなかで活かされます。なにかの局面が解消されたり、学ばれたりすることもある、ということかと思います。これだけですと、局面局面に悩みは尽きないかも知れません。なぜなら、知覚の領域を超えるのが自己であり、それを越えないところの有り方としてのみ、世界を学ぶ方法、ともいえるからです。思いやりや、多くの機微を学んだり、運動にはなりますが、解決には至らないでしょう。知る、ことのみが重要となってくるところです。

知ることのみ。
そうですか・・・。むずかしい。むずかしいです。
でもそうすることによって叶えられるかもしれない・・・


秋は空がきれいですね。
澄んでいると言うか。
一直線の飛行機雲。
きれいなラインです。

No.3743 - 2011/10/03(Mon) 15:42:03

Re: 好奇心とは? / hato

> 数年前、まず、漠然とさとりたいと思ったのです。
> 苦しかったから。
> 悟ったら、覚醒できたら、この苦しさから逃れるかもしれないという動機です。
>
> で、苦しいのは、数々の観念で自分を縛っているからだよと教わりました。
> そこで、内観して観念を浄化していきました。



いろいろ、あったのですね。ここで出会えてよかった、と思います。すこし長くなりますが、ゆっくり進んでいただければと、思います。


> するとだいぶ世界が変わったように楽になりました。
> でもまだまだすべてに愛を感じられないのです。
> そもそも自我だらけです。
> 優しささえ自我です。



大丈夫です。

まずここで、総てに愛を「感じる」必要は、ないということ。愛は本来は、わざわざ「感じる」必要がないものです。

自己、ここでは、愛、としても構いませんが、それは、そのものであるなら本当は、体感できません。その意味で、人が知覚でもって、知る、見つける、ことは、出来ないのです。できなくてよいのです。無理に感じよう、と思えば、自分や周囲を痛めるかも知れません。人は、ちょち腹を立てたり、できないことは放っておいたり、できることをする日常でいいのです。

いつか、街を歩いていると、用賀駅のアーチになった外階段を降りていたとき、急にその街の風景、行き交う人や、ビルや・・・とても。ふいに胸がキュッと熱くなったことがありました。それは確かに、愛を感じた・・とある体験でした。愛おしい、ということ。そんな、ふとしたこと。サオリンさんも、きっとあるはずです。それで、十分なのです。

そうした愛の体感は人を柔らかくし、人生に潤いをもたらしますね。いっぺんで大きく感じて学ぶなら、てっとりばやいこともあります。けれど、それを至高体験として体感しなければならない、と思うなら、この場合は、不要と言います。人はそれぞれ、体験や出来事が成長にどう作用するか、必要な度合いは、とても違います。愛の体験がめざましく必要な人、それよりは、理解することが必要な人、千差万別です。ずーと愛を感じてる、というなら病気です。感じないところですでに、充分に愛、でいいのです。人が愛なら、理解されていくことで、自分を本当に大事にし、労わることができると思います。

自我とは先のお話のとおり、機能として失われるものでありませんが、人が、逆縁起の状態(主体が先に塊としてあるから、見たり聞いたりできる・・という誤解)を解消しての自己であるとき、縁起は双方向に、強いては、自己ならではの有り様として、働くことができます。

人が自己であるとき、正に自己にあるその場所から、ものごとは起きてることを知ります。「・・・だから、こうなる、」という因縁形式に、むやみに嵌ることができないところです。世界のあれこれ事象とその結果に、照らし合わせて見ることが、もはやできない、ということでもあります。といって、何でもどうでもありではありません。ここが大変不可思議ながら、素晴らしいことでもあります。

なにかを味わう・・・聞いたり見たり、こうして書くことは実際、外でも、内でも、ないところで起きてきます。不思議です。たとえば、自分の声をテープに吹き込んで自分で聞くと、別の人の声のよう、ていいますね。それは、身体の内側で聞いてるのと、外から聞こえる、という違いをいうのでしょう。でもね、本当に、そこ、から聞くときの声は、内からでも外からでもない・・・その声です。不思議です。ubik0101さんはとても、非常にこうしたことを深く探求し、味わう人なのですけど、なのでよく、そういうことを話します。知覚とは、ほんとうに絶妙な道具です。


> そこで、今度は、覚醒できないのなら、せめて至高体験をしてみたいと思いました。
> 今は恩寵を待つばかりですが・・・汗



自分のことでいえば経験として、それは幼少の頃に起きました。たしかに忘れられないものだったけれども、思い出されることもない・・・たとえば、光に包まれるとか・・愛の体感・・感動・・・ではまったくない・・・そのように起きました。お奨めはできませんが、こういうこともあるのです。

瞬時に、完全に、その自分が驚異的に意識もろとも消失し、けれど確かに、これ、がないだけでもないのです。意識はなくとも、それは、在る、のです。この世界から完全に断絶しながら、或いはそれは、果、のみと言えるでしょう。予断なきところです。

経験を完全に得、尚かつ正しい時節を十分得られるなら、まったく溜め込む必要もなく、まったく意識は覚えてる必要もなく、その理解は自ずと起きてくることができます。

世界はまことに不可思議で、喜ばしいだけのものでありませんが、この意味で、捨てたものではないのです。ですから、誰かのような体験がないことで消沈することはありません。準備がよく整っているなら、読むことで十分です。

人が、一所懸命、誠心誠意取り組むとき、不信は微塵も見られません。もし、そのようにして時節が満ちたとき、それは起きざるを得ないでしょう。

ubik0101さんの、ことに本編は、人のこちら側から歩む筋道と理解を、非常に助けてくれます。言葉遣いが意識的に判らなくてもよいのです。読むことで、正しい状態が整うことができます。

宝石のような文章、とわたしは思い、とてもとても、大切に読みました。


> 知ることのみ。
> そうですか・・・。むずかしい。むずかしいです。
> でもそうすることによって叶えられるかもしれない・・・



知覚でないところを、知る、という理解でもOKです。そしてもちろん、それは終わりでない、始まりです。


きのう、香りハーブスプレーを作りたくて、ubik0101さんと庭のローズマリー、金木犀を、アルコールに漬けました。数日前から金木犀が満開で、むせるように香っています。

No.3744 - 2011/10/04(Tue) 15:03:57