すこし振り返ります。 たとえば、甘いとか、酸っぱいとの味覚があります。なにか食べて、その味を感じたとして・・・たとえ総ての人の味覚が同じでも、そうでなく一人一人の味覚は実は違っているとしても・・・味覚は味覚であり、さほど、その自分を知る、ということには結びつかないのではないでしょうか。
そこで、その味覚も、人間関係に展開されると。それが原因で、喜び、不満、怒り、親しみ、無視、などが引き起こされる。ひいては葛藤(いわゆる心理的思考)や軋轢(いわゆる不穏な人間関係)が生じることがあるかもしれません。それはおおくは苦痛をもたらし、そこで、そこを調べれば、自我の機能を理解して、それから解放されるかもしれない・・・こう感じられるかもしれません。
しかし、そんな感情も・・・誰にとっても同じでも、一人一人違っても・・・喜び、不満、怒り、悲しみは・・・喜び、不満、怒り、悲しみです。そして、行動、発言、思考も、 誰にとっても同じでも、一人一人違っていても、それは、行動、発言、思考です。もしかして、それをいくら調べてみても、さほど、そうしてる、その自分を知る、ということには結びつきにくいかもしれません。
こうしたことは、人の構成要素に於ける 内容 であり、多くすり替えが起こり、組み合わさって起こる、現象です。表出された現象・・出来事の上辺や、周辺付近をいくら調べても、その自分を知る、ことにはならないでしょう。
つまり、葛藤であれ、軋轢であれ、誰であれ、その状況にあれば起こりえることが、現れるだけで、それをいくら検討しても、この、この自分を知る、そのことにはならないのです。 も、ひとつには、その運動に巻き込まれたりしてるとしても、そうされてる、その自分が隠れた暗黙の前提になっています。 また、それを他人事として傍観したりができ得る、その自分が隠れた暗黙の前提になっています。
台風のあと、庭の地面に、カラスの巣が落ちていました。
|
No.3752 - 2011/10/17(Mon) 12:28:46
|