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記事No.3755に関するスレッドです

陽動作戦 2  / ubik0101&hato
すこし振り返ります。 たとえば、甘いとか、酸っぱいとの味覚があります。なにか食べて、その味を感じたとして・・・たとえ総ての人の味覚が同じでも、そうでなく一人一人の味覚は実は違っているとしても・・・味覚は味覚であり、さほど、その自分を知る、ということには結びつかないのではないでしょうか。

そこで、その味覚も、人間関係に展開されると。それが原因で、喜び、不満、怒り、親しみ、無視、などが引き起こされる。ひいては葛藤(いわゆる心理的思考)や軋轢(いわゆる不穏な人間関係)が生じることがあるかもしれません。それはおおくは苦痛をもたらし、そこで、そこを調べれば、自我の機能を理解して、それから解放されるかもしれない・・・こう感じられるかもしれません。

しかし、そんな感情も・・・誰にとっても同じでも、一人一人違っても・・・喜び、不満、怒り、悲しみは・・・喜び、不満、怒り、悲しみです。そして、行動、発言、思考も、 誰にとっても同じでも、一人一人違っていても、それは、行動、発言、思考です。もしかして、それをいくら調べてみても、さほど、そうしてる、その自分を知る、ということには結びつきにくいかもしれません。

こうしたことは、人の構成要素に於ける 内容 であり、多くすり替えが起こり、組み合わさって起こる、現象です。表出された現象・・出来事の上辺や、周辺付近をいくら調べても、その自分を知る、ことにはならないでしょう。

つまり、葛藤であれ、軋轢であれ、誰であれ、その状況にあれば起こりえることが、現れるだけで、それをいくら検討しても、この、この自分を知る、そのことにはならないのです。 も、ひとつには、その運動に巻き込まれたりしてるとしても、そうされてる、その自分が隠れた暗黙の前提になっています。 また、それを他人事として傍観したりができ得る、その自分が隠れた暗黙の前提になっています。


台風のあと、庭の地面に、カラスの巣が落ちていました。

No.3752 - 2011/10/17(Mon) 12:28:46

Re: 陽動作戦 2  / ubik0101&hato

続きです。

ここでは、そうした自分という前提は、見ることができず、数学の公式のようにあまりに当然で、犯すべからずのことになっているかもしれません。そこにおいて葛藤、軋轢などが起きれば、それは騒がしい自我の機能であり、観察されざるを得ないのです。が、それこそ自分という自我そのことから眼を背けさせる、自我の隠蔽工作、偽装作戦、陽動作戦、ではないでしょうか 。

ちょっと纏めますと、葛藤や軋轢に巻き込まれても。それを、たとえば他人事の非難と正当化として両方を冷静に傍観、観察、検討するとしても。そのようにしてる、その自分は何?に、眼が向いてないかもしれません。

その、その自分に切り込んで行かないことが暗黙の前提になって、葛藤や軋轢いわゆる騒がしい心、あるいは傍観、観察してる、いわゆる静かな心が発生している。それは、どちらも、その自分を問えない、問わないということでは同じではないでしょうか。大事な探究の、向きが違うことも運動にはなる・・・けれども、そうして終わりなく彷徨うかも知れません。

ところで、その自覚される、意識される、葛藤、軋轢は・・・たとえば不満は、嘲りは、怒りは・・・その原因は様々です。つまりは、原因は、とりあえず不明で、不問にされている。隠されているのではないでしょうか。なので、そんな原因など自覚できなくて、不満、嘲り、怒り、があるように感じるということもあり得ます。

この、とりあえずは原因は不明で隠れてる・・・その折々の意識できる葛藤や軋轢ではなく・・・それを支えてる見えないその前提に人は、いわゆる同一化してるのではないでしょうか。そして見えないから、それに正当性があるような気がするだけではないでしょうか。

そうでなく、自我とは、顕れた葛藤や軋轢に同一化してあることなら、その葛藤や軋轢がないなら、自我もない、ことになります。なんの不満もなく暮らせれば、自我はないことになります。けど、自我はあったりなかったりするのではなくて、自覚できない、というだけです。


白菜。無農薬だとさすがに、虫食いあとが目立ちます。

No.3753 - 2011/10/17(Mon) 12:33:11

Re: 陽動作戦 2  / ubik0101&hato

続きです。

その葛藤や軋轢の原因、隠れた見えない暗黙の前提は、もしかして、それまでそうと考えたことがなくても、あるいは傲慢さかもしれません。あるいは自己顕示のために、あるいは万能感のために、あるいは偽善のために、あるいは善悪のために、あるいは損得のために、あるいは道徳のために、そうなのかもしれません。

なので、ある程度は、その隠れてる前提を、もしかして自分の言動、思考の原因は、これが原因かな?と、空想の翼をひろげて探ることが効果あります。上辺とその周辺を彷徨うのでなく、掘り起こしていく作業、横だけではなく、縦です。探究とは、非常にフィジカルなことであり、実際に人の構造としての向き、方向性を、十全に使います。

これは思考の大事な機能ではないでしょうか。というのも、思考によって何かを了解することは困難なのですが、了解したことは思考できるのです。それで、ここでは、たとえば自己顕示欲という言葉、知識としてだけでも・・・なぜか人にはその意味が漠然としてでも判り・・・それを自分に適応する空想は必要になるようです。

そして、とある思考は、自己保存から、生じていた。と見た、とします。するとこんどは、自己保存、そのことの研究、定義が必要になります。そしてその定義なのですが、それには、まったく自分勝手な正当性しかないことに気がつくかもしれません。すると、その自己保存から生じていた思考は正当性を失い、成立することはできません。つまり思考が消えます。ここは、たとえば人間関係から学ぶのではなく、たった一人、この自分にあって学ばねばなりません。

ここで、実は、なにかの行動や、発言、思考や、感情ががなんであれ、その原因は、もしかして、隠れて見えない権力欲でもあり得ます。隠れて見えない不真面目さでもあり得ます。たとえば善悪は、損得の変調かもしれません。たとえば道徳は、ここに実際にはないこととしての、固定観念のことかもしれません。つまりは、ある程度は、どんな組み合わせもあるのに、この自分の怒りの原因はこれ、ということで。そいう意味づけを自分なりにしていたということでもあり、また、その探究は、それなりにですが、ある程度は個性的なのです。


玉すだれの、種?・・・かも、知れません。

No.3754 - 2011/10/17(Mon) 12:40:55

Re: 陽動作戦 2  / ubik0101&hato

続きです。

そしてまた、どう原因を空想しても、それは違う原因から、おなじ怒りが生起したということで、それは、的を外さないのです。ちらとでも、これは、そうかな?と空想したことは的を射るのです。まったく関係なければ空想さえできないのではないでしょうか。つまり事実、自分の有り様がそうだから、そう空想できるのでしょう。それに気がつくと、そのような顕れたことと、隠れたこと、その構造、そのことを学ぶことになります。

このように思考することは、それが目的としてではなくても、繊細であること、忍耐強いこと、自分で自分の病を手術する医師のような正確さ、素直なことの準備が整います。これは、たとえば太平洋の水をバケツで汲み出すような、ほとんど無駄な無意味な作業なのですが、そうすることで、人に筋力がつくようなことです。これは実際に、やらねばなりません。


メダカ鉢です。蓮の葉の影が、ハート型に映っています。浮き玉を、いくつか入れてみました。

No.3755 - 2011/10/17(Mon) 12:45:06