>すこし振り返ります。 たとえば、甘いとか、酸っぱいとの味覚があります。なにか食べて、その味を感じたとして・・・たとえ総ての人の味覚が同じでも、そうでなく一人一人の味覚は実は違っているとしても・・・味覚は味覚であり、さほど、その自分を知る、ということには結びつかないのではないでしょうか。
そして、味覚だけではなく、たとえば山や樹や鳥・・・どんなことも自分ではない・・・でしょう。 つまり、知覚され得ることは、物質も、眼や耳や舌などの感覚器官も、知覚も、感情も、思考も、自分ではない、という事態です 。
それは、どんなことも自分ではない、という思考も、自分ではない、ということです。そしてそれは、どんなことも自分ではない、としてるその自分も自分ではない、ということです。なのに、喉が渇けば水を飲む、鳥が鳴いたら、その声が聞こえます。青空が楽しい・・・これは、不思議、神秘そのことです。
ふつうの日常がそうではないでしょうか。そこで、その全体を見てみましょう。どんな知覚も、行動も、発言も、思考も、自分そのことではないのに、それに同一化して、因果に縛られる、怒ったり喜んだり、静かだったりする・・・けど、その総てが自分ではない・・・そのことは、なにを意味するのでしょう。
それは世界が・・・人との関係が、あるいは一人あることが・・・知覚、行動、発言、思考、その総てが、その自分がない、という事態を表現してる、教えようとしてる・・・ことではないでしょうか。世界はどこまでも人のために、働いてくれています。
続きます。
ブロッコリーの苗です。畝を耕したり、耕さなかったり、黒マルチシートをしたりして、生長の様子を見ています。
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No.3766 - 2011/10/25(Tue) 13:07:14
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