[ 掲示板に戻る ]

記事No.3812に関するスレッドです

(No Subject) / peer
>苦しんでる人を力付けたりするときは、なにか見越してものを言うことも、あるかも知れませんね。そんなことも、あんなことも、あるかも知れません。痛みや苦しみを、介抱したい、ということ。

>そしてまた、そうである必要もない・・・が、あるかも知れません。

苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
・・・あります。
だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。
でも、まぁ。なんか、それで、変わるものがあれば
面白いと思ってしまう。ヒネクレモノなんです。
世界が膠着しているのが、一番〜ツマラナイ。
そんなときに特にグリグリしたがる。
自分もろとも、膠着をたたき壊す。。。ような。。

No.3791 - 2011/11/11(Fri) 11:32:22

Re: / peer
なんか・・・ツマラナイなぁ〜と
そして「人を褒めCENSORED見よう」と思いつく。
褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。

No.3792 - 2011/11/11(Fri) 11:36:25

Re: / ubik0101&hato
>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって・・・あります。
>だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。



グリグリが、その人のためになってる場合は、究極的に優しい〜〜かも、知れませんもんね。まあわたしとしては、peerさんが優しくても、そうでなくても、どっちでもいいんですけど〜。


> 褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
> ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
> あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。



そう。

peerさんを褒めCENSOREDみたら、

ピカピカな、なにかが、立ち現れたのですよ。

わかりましたですか???

hato


>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
>・・・あります。



それ、それ。それです。ここだけの話ですが、ubik0101も、実は、得意技です。

みなし児のバラード

http://www.youtube.com/watch?v=5-TIjY-9qzU

ストーリーなんかどうでもよくて、エンディングテーマが、愛唱歌でした。とくに、♪強ければそれでいいんだー♪ひねくれて星を睨んだ僕なのさー。ってところが、とても響いたのです。

ubik0101

No.3794 - 2011/11/11(Fri) 21:55:20

Re: / peer
だからね。やっぱり〜ね。
北風より太陽なのです。
相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。

ただ、こんなアタシなんかに褒められてもねぇ〜
嬉しくもなんともないだろう・・・
みたいなことが、、、昔は、ありましたね。
まっ。そんなの関係ないのだ。
どうでもいいのだ。

No.3795 - 2011/11/12(Sat) 03:25:06

Re: / ubik0101&hato

> だからね。やっぱり〜ね。
> 北風より太陽なのです。



太陽は、人を蒸し焼きにしてしまえますもんね。たとえば愛は、表現としていつも慈愛とは、限らないでしょう。比喩としての北風と太陽・・・これはどちらの働きが・・・ということでは、ないでしょうね。人はいつも、優しいものが好き、気分のよくなることが好き・・・でも、成長とは、あらゆる機微を通して起こると思います。

そして尚、愛は、愛。と思いますね。


> 相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
> 願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。



愛は、愛。それは、こういう仕方・・・ああいう仕方・・・或いはその、感じ・・・にとくに関係するもない・・・愛。

ピカリと光ったなにかは、大切なテーマです。たとえば愛は、どれかの状態、だけのものではないのに、人はその形式と内容をくっつけておきたい、或いは、くっついてる・・・と思い込んでいる、かも知れません。けれどそれは本当は、とてもとても、膠着ない、フレキシブルなものでしょう。

神奈川に行ってきましたが、やはり関東のほうが、すこし冷えるかも知れません。もう11月なのにこちら、昼間は半袖でいます。

hato

たぶん怒りは、愚かさへの攻撃反応で。ほかの人に顕れてる愚かさと闘わなくてはならない、という理由がありそうです。それにしても、その理由(思考)そのことには、その理由(思考)が正当か不当かを判断する機能はない。とか。自分は自分と距離がなく、自分を怒ることは困難。とか。そこにも気がつくことがあるようです。

それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。ということに気がついて、なぜなくなったんだろうと。たとえば自我とかが、あるとかないとかいう自覚できる思考とは違っていて、ちょっと驚き、ということがあります。

ubik0101

玄関の、小さなプリペットです。葉が大きくて、生長が楽しみです。

No.3797 - 2011/11/12(Sat) 21:26:34

Re: / peer
>それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。

ほーほー。いつのまにか、なくなっていた。
え〜と。劣等感とか優越感とか。
こう感じるのは、間違いよね。
比較対照するのは、この世の常。
比較したから、貴方がいて、私がいる。
私が見た、私の中の貴方がいるだけ・・・。
それに意味づけして、泣いたり笑ったり。
そんな必要はないのにね。

そうでなかったら、
私と貴方が、まったく同じなら
ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、
といわれているように、私は消えてしまう。
と・・・思います。

No.3801 - 2011/11/16(Wed) 01:51:29

Re: / ubik0101
ほかの人には、なんか自分とは違う、意地悪な性格、優しい性格、狡い性格、など。自分とは異なってる特定できる個別の、行動、発言、思考の傾向、型とかがあるようにしておかないと、掴み所がなくて、ああいう人は、ああいう人だと空想すること、判断すること、意味づけること、もできないのでしょう。

そいう比較できるということは、距離が必要で。そうしてる、ほかの人から分離されてると意識させられる、自分。それは、特定の、個別の自分で。そこで、ほかの人と比較して感じる・・・劣等感・優越感・・・ともに。距離の状態から派生した、特定の個別のことを掴むことが空想、とも言えます。また、自分と自分との距離で。どこか似たような人を好んだり、嫌ったり、もあるかもしれません。

それで、空想一般をしなくなってると・・・つまりは、ほかの人との意味づけられた距離、自分と自分との意味づけられた距離もないということで・・・ほかの人との違いが、ことさらの違いとして意味づけられず・・・・自分で自分を自覚しようともしてないと。劣等感、優越感、疎外感とかをなくそうという道筋を辿らなくても、それがなくなって。そのことにも気がつかない、ってことかもしれません。

No.3805 - 2011/11/16(Wed) 21:23:43

Re: / peer
わたし独りでは、わたしを認識することができない。
こんな構造があるため、他者がいてくれる。
のだと思います。

それは、同じ意味で、他者の為に自分が
存在している。とも言えることでしょう。
相互に、自分として存在する理由。

何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。
右手と左手のように、寄り添う感覚。
だから卑下したり優越感を持ったり
する必要はない〜わけです。
協力関係があるだけなのですね。

No.3806 - 2011/11/17(Thu) 01:46:35

Re: / ubik0101
>わたし独りでは、わたしを認識することができない。

それはそうです。
でも、それは、どうして、そう?

>こんな構造があるため、他者がいてくれる。

それはそうです。
でも、それは、なぜ、そう?

たぶん単一なら認識できない、多様なら差が認識。
でも、それは、どうして、そう?

>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?また、単独でも、みんな一緒でも、多様でも、劣等感、優越感、とかはないのでは? でも、それは、なぜ、そう?

たとえば傲慢な人がいるとします。その人は、道で会ったら笑顔で近所の人に挨拶したりします。そのように、まったく自分は傲慢だと思考しないでも、傲慢です。そして自分は謙ってると思考できたりします。つまり、その人の事態と、その思考は無関係です。なので誤認できます。事態と思考は無関係、だからまた、自分が傲慢だと認識できます。

また、たとえば素直な人は、自分が素直だと思考してもしなくても、素直です。その思考と、その事態は無関係。なので素直な人が素直と認識して、正確です。なのですが、これは、人の事態と思考の関係です。これはもともと傲慢とか素直とか、認識でき得る、評価でき得る範疇として探ってる。だから、かもしれません。

でも世界とか、現実とかを・・・ 認識の、意味の、思考の、生じるそのことの源?そのあたりを探りたいと感じています。そのことを思考、表現してしまえば、もう意味を汲み取る前?の事態が、こういうことだと意味づけられて表現されてしまって、それでは不可。どうにも思考、表現は不可。

ちょっとそれに近いのは・・・たとえば、自分が消えるとか、距離がどうとか。そいう事態と、そいう事態の思考、表現、との関係 。その事態は、表現そのことは違ってて、どう表現しても表現できない・・・に近いのです。このあたり、なにもないかもしれないけど、なにかありそうな気はするのです。

ルンルンは下駄箱で遊ぶのが大好きで、スニーカーを食い破ったりする困ったちゃんです。ここにも何かありそうだな、と格子の穴から中を覗いて廻ります。

No.3812 - 2011/11/18(Fri) 17:34:58