>>わたし独りでは、わたしを認識することができない。 >>こんな構造があるため、他者がいてくれる。
>それはそうです。 >でも、それは、なぜ、そう?
んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ? 自我がなければ、我々はすべてで1つですから。
>>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。
>それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?
たとえば、渡り鳥は、ぶつかりあわないで飛びますね。 イワシの群れなんて、よくぶつからないなあと思う程一体になってます。 このとき、思考が入ると、一体感がなくなり混乱する。と思います。 この場合のように、劣等感とか優越感とは違う次元の行動の話だったのです。
>たとえば傲慢な人がいるとします。
本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、 相手によって場所によって変わるんじゃないですか? まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。 そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。 違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。 傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。
共通の言語・共通の価値観世界観があって、表現されて伝わって理解されて・・・ 何かを見た時、必ず「これに似ている」というふうになって 認識されちゃうわけで〜 むしろ表現できてしまう場合、過去を持ち出して 新たなモノにクッツケてしまうから違和感が残る。 (それこそ、新しい酒は、新しい革袋にいれること)みたいな〜 これまでにないモノなら、これまでにない表現になるし。 そしてほとんど当人にしか理解できない。ということが起きる。 だから無理やり表現しようとしないで「味わう」という関係になる んじゃないかしら。
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No.3813 - 2011/11/20(Sun) 02:22:18
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