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記事No.3814に関するスレッドです

(No Subject) / peer
>>わたし独りでは、わたしを認識することができない。
>>こんな構造があるため、他者がいてくれる。


>それはそうです。
>でも、それは、なぜ、そう?


んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
自我がなければ、我々はすべてで1つですから。

>>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

>それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?

たとえば、渡り鳥は、ぶつかりあわないで飛びますね。
イワシの群れなんて、よくぶつからないなあと思う程一体になってます。
このとき、思考が入ると、一体感がなくなり混乱する。と思います。
この場合のように、劣等感とか優越感とは違う次元の行動の話だったのです。

>たとえば傲慢な人がいるとします。

本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
相手によって場所によって変わるんじゃないですか?
まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。

共通の言語・共通の価値観世界観があって、表現されて伝わって理解されて・・・
何かを見た時、必ず「これに似ている」というふうになって
認識されちゃうわけで〜
むしろ表現できてしまう場合、過去を持ち出して
新たなモノにクッツケてしまうから違和感が残る。
(それこそ、新しい酒は、新しい革袋にいれること)みたいな〜
これまでにないモノなら、これまでにない表現になるし。
そしてほとんど当人にしか理解できない。ということが起きる。
だから無理やり表現しようとしないで「味わう」という関係になる
んじゃないかしら。

No.3813 - 2011/11/20(Sun) 02:22:18

Re: / hato

> んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
> 自我がなければ、我々はすべてで1つですから。


なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする自我とは、重いもの、かも知れません。でも、自我がなくても、もし人が無我に留まるなら、その世界と一体・・・自然に生きる・・・を見て、その思考や自身の流れ方を問題にしないことで、ありのままひとつ・・・かも知れません。世界は、それ自身のやり方で進んでいるとして、でも人は、世界を一体一様に流れていく・・・ではないと、思います。

一歩、踏み込みます。そんな自我、無我、でもないところの、その自分、その自己、であるとき、人は必ず、この世界で、我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。なりようがない、という事実を見ます。

たとえば森羅万象とは、総てはひとつ、として収斂されてしまうには、あまりに不可−思議です。だれがそれを、知っている、でしょうか。ここで総て、とは、なんでしょう。とても簡単に、人は、すべて、と言います。自分が知ってるところ、意識され、感じられるところの総てが、すべて・・・というとき、人は、道具である感覚、意識の焦点化、という機能をまったく前提に据えたまま、そのように表現します。ここでも人は、不可−思議ということを、世界のなにかに照らし合わせて考えようとします。空想なら、可能かも知れません。でも、事実では、ないかも知れません。

空想不能・・・というとき、なにかが世界を創り出し、私たちを分身として表現している・・・と、言えません。この世界がすべて・・・とも、世界のほかに何かがある・・・とも、言えません。それが不可思議ということです。なぜ、総てはひとつ、と言えるでしょう。畏敬を知るとは、まったく不可知であることを、その腑の深く深くに染み入らせ、落とし込むように知った、とき、初めて本当の意味で、畏れることを知る、ということでもあります。そのとき、知ってる、との傲慢さを捨て、人は新たに、進むことができます。

総てはひとつ、という概念が、極上のツールとして役立ってくれたとして、人は、方便に留まることはありません。方便に留まるとき、進むことが難しいでしょう。留まるところでない場所に留まることは、人が無我であっても、仕合せとはいえないでしょう。



> 本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
> 相手によって場所によって変わるんじゃないですか?



なにを知る、とし、なにを知らない、とするか、それが判らないのに知ってる、と思うとき、人は傲慢です。

それは自我なのでしょう。相手によって、場所によって、出たり出なかったりするなら、それを嘘付きとも、いうかも知れません。


> まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
> そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
> 違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
> 傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。



この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。けれど、人が素直であることは、自分本位では難しいでしょう。ほとんど、無理でしょう。なぜなら、素直とは、人が自我の頑さを固持していたら、ほとんど、保つことができない資質です。

人が成長して与えられる、このような「特質」は、もちろん、世界・・・ことに社会を基準に置くことは難しいのです。世界の現象や社会の、なにかに素直・・・という表現が通常、されるとしても、適当でないと、思います。素直とは、文字通り、素に直結することと言えます。人が進むために、恩寵として与えられる特質のことを言います。

人が素直であるとき、意識がどんなに迷っても、かろうじて道を進んでいくことができます。それは決して、頑固とは違います。なにか守りたい信条や見解、体裁その自我、また、なにか関係を固持することより、優先されるそれがあることを、素直という事態は知らせ、また、人がそのようにあることを言います。

太古の昔から、人は素直でありなさい。
と、いわれるのは、

文字通り、なにより、大事だからです。


peerさんの投稿は、読む人に共通のテーマがあるかも、とのことで、2通の返信になりました。随所に鍛えられてるpeerさんなら、だいじょうぶ。ということで一致して、それっ、と投稿しますね。

No.3814 - 2011/11/20(Sun) 22:17:43

Re: / ubik0101

peerさんが、それをどのようにして了解したのか、まだ知らないので。「自我がなければ、我々はすべてでひとつ」、これだけを聞いて思うこと、を話してみます。

どうやっても人は、その自分の、見る聞く、行動、発言、思考に関わっています。その関わりから離れて自分はないでしょう。ということは、どうやっても自分の関わることの外にでられないことを示しています。と、いうそのことが「我々はすべてでひとつ」とは断定できない、そうかどうかは解らない、ということを示してるのではないでしょうか。意地悪に言うならばですが、なにか見る聞く、行動、発言、思考に関わって反応して生じる自分なら、その外は、あり得ない。それは世界に依存してる自我、でないとは言えません。

それに、世界や人、それと自分を分離させるということだけが自我なのでしょうか。つまり自我を、全体から分離する、されることと捉えると、自我がなければ、ひとつ、と帰着せざるを得ないかもしれません。ほかにも自我は、自分で自分を自覚したいこととか・・・それは分離ではない、ただ独りある、に繋がるでしょうし・・・み〜んな揃って。ない。ってことで、一緒。だとしても、ない、の意味を問うとか・・・ひとつ、で終わるわけではないでしょうし、学べることがあります。

どのようにまあ、世界を捉えてもいいのですが・・・どうでもいい話なんですが・・・書店で斜め読みしたので、いい加減な記憶ですが、ある人にハイヤーセルフが話します。みんな繋がってるんだよ。大根一本だって、太陽の恵み、空気、水、肥料とかで育つんだ。それを育てる人だって、みんな、ほかのことや人と繋がってるんだ・・・とか話します。

それは、大根とか、人とか、仮に世界から個別のこととして切り取ったことを隠れた前提として空想すると、そうでない逆の、繋がってる。が見えるだけです。それはループになってるので、その外が見えない・・・で、ひとつ・・・それで納得なら、それでいいのですが・・・ほかにもある世界の一つの解釈ではないでしょうか。まあ、縁起、世界の総活動のことを、ひとつ、と呼べないことはないのですが、そう呼ぶと不適切な命名だと感じます。

ところで傲慢、素直さは、TPOに応じて、あったりなかったりするということ?傲慢、素直を「この社会(ルール)に於いて」として捉えるとして、優越感、劣等感と、どう違う? これは自我だと自覚できない自我は、問題にはならない?たとえば一体感があって、その時は優越感、劣等感が自覚できない、それだけで違う次元なのでしょうか。また自我は、あったりなかったりするのでしょうか。

もしかして、それを自覚できないでも、無自覚な優越感、劣等感・・・自我に、支配されてるということもあります。そんな自覚の、ない、ことからの解放がなければ自覚の、ある、ことからの解放は困難です。その解放を自我からは学ぶこともできます。 おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて確かめたことはないのですが、一体感だけでも、分離だけでもないような気がします。

こんなものを?・・・見つけました。

No.3815 - 2011/11/20(Sun) 22:18:25

Re: / peer
>なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。

それにしても「我」のくっついたモノに対して
自分の価値観として大切にする人もいるし、
見るに堪えないと感じる人もいるようです。

>それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする
>自我とは、重いもの、かも知れません。


「そうしよう」としているわけではなく、
そのように人は作られているだけでしょう。
自我。なんてものがあると認識できるのは
人とチンパンジーくらいのものでは?

>我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。
>なりようがない、という事実を見ます。


という見方しか出来ない状態に居る。
ということでしょうね。

>この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。

人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
あると思いますね。
社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。

No.3816 - 2011/11/21(Mon) 01:59:45

Re: / peer
>おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて
>確かめたことはないのですが、一体感だけでも、
>分離だけでもないような気がします。


大根とか世界とかの繋がり関係性の説明は
思考の範疇じゃないかしら。
そう言われればそうだよね。というようなコト。
潜在意識の表面にあって、意識すると意識できる。

群れにリーダーがいて「こうしよう」としなくても
「こうしたら、こうなる」と思考しなくても
そうなることと決まっている。ように動く。
そんな話なんですけど、ね。

そんなふうに、群れ全体が自分感覚として広がる。
境界線の限界はない、という構造もありまして。

私たちには、肉体の限界・境界線があります。
ここで、長ボウキを持つと、その限界は
長ボウキにまで広がります。
手を使うように、細かい作業が可能になります。
車に乗って自分の体のごとく自由自在に動かすこと
ができるのは、体の限界が車を含むから〜です。
ギリギリの車庫入れも簡単。
これは、実感できることかなぁ〜と思います。

No.3817 - 2011/11/21(Mon) 02:21:36

Re: / ubik0101
> これは、実感できることかなぁ〜と思います。

それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふと思いついて、ネットで検索したら、太古の不二一元論は《アートマンはブラフマン》ということらしくて、今風の、ひとつ、とは少し違うようでした。

ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

No.3818 - 2011/11/21(Mon) 21:01:29

Re: / hato

こんばんは。こちらは、ようやく冬将軍のようです。
木々の枝が冷たい。冬の気配がします。


> >なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。
>
> んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
> だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
> 出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
> 「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。



そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。


> それにしても「我」のくっついたモノに対して
> 自分の価値観として大切にする人もいるし、
> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。



そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。


> 「そうしよう」としているわけではなく、
> そのように人は作られているだけでしょう。
> 自我。なんてものがあると認識できるのは
> 人とチンパンジーくらいのものでは?



要はするに、学ばなければ消化もない・・・であり、無我もやはり、学ばなければ昇華もない・・・でしょう。ちょち冗談まじりですが、そんな感じです。


> という見方しか出来ない状態に居る。
> ということでしょうね。



そうです。それはたとえば、皮肉になり得ない・・・ほど、当然なことなのです。なぜなら、そうしたなにか、総ては・・・などの信条は、理解され得るのであり、理解したなら、理解していないところに、その意味で戻ることはできません。用いることはできても、留まることはないでしょう。

その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。


> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
> その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
> あると思いますね。
> 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
> そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
> 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。



人と社会は、同じ土俵に見ることができないでしょう。世界は人を育ててくれます。けれど、社会とは世間。多く自我によって作られた、虚構ですね。人がこうしたことを本気で学ぼう、というとき、社会、その世間に裏打ちして貰えることはないでしょう。たとえば社会を背負った人が、本気で学ぶ人を愛することは、おそらく、できないでしょう。その意味で、感謝されることも、ないでしょう。

その人は、社会に生きてるように見えるかもしれません。でも違います。ただ、それ、を生きる、だけなのです。


庭に小さな、可愛いビオラがたくさん、咲くといいね、と言ってます。増えたら、とてもすてきです。

No.3819 - 2011/11/22(Tue) 00:33:36

Re: / peer
>それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふうむ。そんなふうに聞こえますか?
そこは、あえて自我と話を絡めないで欲しいのですが?
自分としての肉体感覚の空間の幅が、自由に広がったり縮んだりする話、なのです。
この感覚が乏しいと、車庫入れが下手。ということは、あると思います。
まっ。そういう一般的な、普通の人の感覚のことです。

>ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

どうなんでしょうね。わかりません。私には、そんな感じがする。ということね。
そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

No.3820 - 2011/11/23(Wed) 04:21:46