| おおよそ、 みんな人の基本の性能?は、泣いたり笑ったり食べたり寝たり思考したり・・・そのようなこと。なぜそれができるか知らなくても、みな一人一人、それぞれ、そんな生活してる。ここからも、ひとつ、は演繹できそうです。
そして、悩み、安堵、優越感、劣等感、意地悪、優しさ、怒り、自我でも、無我でも、単独でも、多様でも、総て纏めると、ひとつ、と、演繹できるでしょう。でもそれを、どう生きるかは、違います。
あくまで、どのように学んだかということの喩えですが・・・長ボウキで庭の掃除を真剣にした人、それを修行にまでした人、あるいは嫌々いい加減にした人、掃除を拒んだ人、自動車の練習をした人、しなかった人、ま、違わないかも知れないけど、違っても当たり前です。
やはり、ひとつ、はそれに帰着して済ませることではなく・・・いつか話したと思いますが・・・たとえば、ひとつの24色の絵の具の箱・・・世界・・・で描かれた絵は、その絵の具を使ってはいるけど、ひとつ、ではない、ことを醸しだしてる。です。
ところで話を戻します。そして、「一般的な、普通の人」ではなく、自我無我の経緯を通った人・・・もう無我の根拠を自我に置く必要もなくなった・・・これも、自我もなければ、無我もない・・・それで、運転したり、歩いたり、掃除したりです。
つまり、運転しても、庭を掃除しても、そんな人がいるとして「一般的な、普通の人」と、おおまかには変わりません。つまり区別するとして、同じことをしても自我は自我、無我は無我。そうだから、ことは困難と言えば困難でもあります。
続きます。
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No.3823 - 2011/11/23(Wed) 19:37:16 |