>そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。
そうそう。悟るには無我が必要だと思い込まされて暴走するんですね。 しかし、やっぱり知識だけで終わるのが一般的です。 無我がある時、自我はない。自我がある時、無我はない。なので。なかなか難しい。 そしてトリックに、はまり込む。 自我にとって無我は・・・分からないものであって、分からないことは怖くなるものなので、自我を持ちながら、自我が無我にならないかな〜と、やっちゃう。 そんなふうに見えます。
>> それにしても「我」のくっついたモノに対して >> 自分の価値観として大切にする人もいるし、 >> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。
>そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。
誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。 たとえば「この人は傲慢だ」と感じる。その証拠は?自分が感じるから〜しかないような気もします。 これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確認したりする。わけで。 (自分の中にないものを、人は、外に見ません) 中に照らし合わせるものがなかったら、どんなに人が傲慢をやろうと、関心が向かない。ということで。 人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。
>その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。
うん。私の場合では、それは「終わった」という感覚。 良い事を学んだ。というものはなく。利用しよう、もなく。ただ終わった。 終わった処に、留まる事は出来ませんね。
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No.3821 - 2011/11/23(Wed) 04:39:44
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