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記事No.3841に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
>旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
>というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
>ということもあるかしら?


そのように。自分は、裸なのに、その裸と思う、そのことに囚われて、旅してしまうこともあるでしょう。

ここでは裸の自分を裸と認識することを。A=Aの思考と呼んでいますが、それが可能になるには、世界、森羅万象の活動が必要です。それは、たとえば裸と着服、二項目を 比較対照する思考、あるいは自分で自分の状態を対象化する分裂の思考とは、趣、意味、構造が違います。

(たぶん高校生の頃です。ラジオから、♪♪とても淋しい海〜。そこには誰もいなかった〜。という歌が聞こえました。なぜ自分一人しかいないのに、誰もいなかったことが判ったんだろう?そんな疑問を持ちました)。

これが明確でないと。それが思考、認識だというだけで、比較対照する思考、あるいは分裂の思考、と思いこんで、自分が裸だと認識するそのことは・・・どこか箪笥・・・無意識に服を隠し持ってないわけではないか?と思って、北風と太陽に出会ってしまうこともあり得ます。

どうでもいい話なんですが、「無我がある」なんてことを言った人に。なんですか、それは?と聞いてみました。すると・・・しばらく考えて・・・無我って状態があるんだ・・・と呟きます。

それは、そうです。でも、それは無我を対象にしてるかもしれません。そんなことより見るべきは、そんなことを言う、その日常の自分が、どうか、と言うことだけです。

続きます。

No.3835 - 2011/11/29(Tue) 17:11:13

Re: / ubik0101
まあ人の経緯としては、自分は無我ということで、どこかにいるかも知れない、まだ自我な人と自分を比較することはあるかもしれません。それなら、そいう比較対照にする思考を根拠にして、無我を確認したいこと、が問題です。

ではなく、無我ならば、どこを探しても、自我も無我もないのです。そこで無我と表現するならば、なんだかの意味もなく、どんな根拠もなく、あらゆる理由がなく・・・無我でなくて、どうして無我と言えるでしょう。

ここから、ほかにも・・・無我は無我と自覚されないでも無我・・・とか展開はできそうですが・・・無我であって、無我。この思考は、そこで表現されてることを、世界が裏付けているのでなければ。それまでの人の経緯の総てが機能してるのでなければ。それゆえ個別の理由がない、でなければ、可能とは言えません。

もともと・・・ほかの人の場合は知りませんが・・・自我は虚構。それを見る、その有り様は、自我とか、無我とか、無思考とか、呼べることではないです。総てがあるから、どれでもない、と言うのがまだ近く、中道、世界の総活動、と呼んでいます。もちろん無我も、ひとつの大切な捕らえ方です。が、それさえ命名で。 そして命名は不適切なら問題です。

hatoさんと、行った海。なんか、オブジェみたいのが、立っていました。

No.3836 - 2011/11/29(Tue) 17:27:55

Re: / peer
着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。

対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。
何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

No.3837 - 2011/11/30(Wed) 01:58:13

Re: / ubik0101
>着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
>そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。


なにか着なければならないと感じるのは、すでに靴下とかを履いていて、素っ裸ではないからです。もちろん、 まったく着てることに気がつかないほど自然に着ていても、裸ではないです。また無思考状態、忘我状態を、ない、と命名してるわけではありません。 誰でも裸になったら、裸になったという実感がある、そんなことです。

>対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。

どこかに無我という何かがあって、なくした宝石のように、それは懸命に探せば見つかる、というのではありません。 それまで、ないとも、あるとも思ってもなかった見て聞いて、行動する自分が、虚構だった、です。張り子の虎のように、その構造だけあって、中身が、ない、という意味です。

つまり 自我のほかに、ない、があるわけではありません。思いっ切り思い切って言うと、自我のほかには無我はないです。その自我が正体を開かすことが起きればいいのです。そのことで、いわゆる変化が確定します。とりあえずですが、それは人為的には困難、に一票です。

>何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

ありとあらゆること、つまり見る聞くなどの知覚、行動、発言、思考が、これは張り子の虎だ、と言ってくれているのです。ただ、あるないは、それほど問題ではないです。解脱、それが大事です。

なにかの鳥の、踊るような足跡です。

No.3838 - 2011/11/30(Wed) 19:42:30

Re: / peer
「裸」も、すでに自分を自覚できるから、無我でもないような気がする・・・。
つまり、無我といえど、何かはある。ないはずなのに、何かある。
みたいなことかなぁ。
まぁ。確かに、目では見えないナニカが、あると感じます。
言ったり行動した事が、つながってみたら、ぜんぜん別の意味があったりする。
なにか、操られて「ここにいる」そんな感じがある。
けど、なんとなく心地よい。なるべくしてなっている。そんな感じ。

No.3839 - 2011/12/01(Thu) 02:48:45

Re: / ubik0101
まあ、ない、はブラックホールのようなことで、そこからは電波も出られず、電波による観測は不能と言われます。でも、そこに吸い込まれつつあるチリや星から出る電波は観測できる、そうです。そのように自我その、ない、は日常では知覚不能で。その、行動、発言、思考に現れます。十二縁起の「無明ありて、行あり・・・」です。それで、ない、を了解でき得るためには、自我には構造がなければ、世界の総ての活動がなければ、不可能かもしれません。

ところで、復習です。ない、ということは。まずは・・・あるともないとも思ってもなかった、その自分が、虚構。つまり中心が、ない、ということです。そして・・・それ自身は、それ自身を自覚できない、の、ない、です。さらに・・・自己は、知覚の範疇に、ない。の、ない、です。この、ない、は、ある、とほどんど同義。ある、ゆえに知覚でき、ない、です。

この知覚の範疇にない自己が、虚構の自我、ない、を了解します。と言うよりも、ない、を知覚することは、自己の発現を意味します。ここに、無我の意義があります。さらに、この自己を知覚の範疇にないと了解しないと、それはそれを知覚できないのに、自分が自分を知覚しようとすることという自我、の機能に見舞われます。そして、これを見ることで逆に、自我の機能としての、自覚、が了解され整合されます。

続きます。

No.3840 - 2011/12/01(Thu) 16:46:22

Re: / ubik0101
そうでなく日常の、ある、ということは・・・それが機能していて知覚される、という事態です。もちろん電波とか、超音波とか、人には見えない聞こえないものを知識では知ってはいても、 知覚されないことは、ないことだ。ある、ことは知覚される。という、ある、に暗黙裏に囚われる傾向の有り様の・・・たとえば自我だと自覚されなければ自我ではないという・・・自我もあります。それで学ぶことにおいて、ない、の知覚が関門として機能します。 ここはまた、その事態と、その思考の関係の理解に繋がるでしょう。

このように見ていくと、このようなことは意味があるように感じられます。そして意味とは、なにかの構造があって、それが知り得るということです。なにか日常から意味を読んで、その理由を求めるのなら、進化する世界、とか。神、とか。多重世界、とか。ありのままに世界は無意味、とか。を想定することになりそうです。けど、そのような意味、無意味を破壊する疑問が自発的に生じます。なぜ、これは、これ?

たぶん親子でしょう。海の公園の自動販売機です。

No.3841 - 2011/12/01(Thu) 16:48:56

Re: / peer
宇宙は、いつから存在するのか。
それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
はじまった。

言葉にしなかったら、ただのカオス的な混沌ですか。
しかし、ヒトって、言葉にして認識したいモノなのですね。
なんでもないことに意味を求めたり。
アレとコレをつなげて理由にしたり。
事実を事実だけに、とどめない。
そんなモノなのだということは、わかる。

No.3844 - 2011/12/03(Sat) 04:16:43

Re: / ubik0101

なんでも、いいのですが・・・実験、つまり実際に経験、してみたでしょうか・・・たとえば、です。

>宇宙は、いつから存在するのか。
>それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
>はじまった。


というa・・・印象、感覚、思考、言葉、に対して。では、b・・・《これは、なぜ、これ?》と問うのです。どうでしょう?




それ、a・・・bが自発的なら、そこで問われたことも、問うことも瞬時に壊滅します。そして、たとえば「事実を事実だけに」という思考も生起することはできないのです。

説明ですが・・・どんなことも、こう、である必要がないのに、こう。たとえば、見る聞くが、こう、である必要はないのに、見る聞く。怒りが喜び平穏が、こうである必要がないのに、怒り喜び平穏で。思考が、時間が、空間が、世界が・・・こう・・・でなくていいのに。こう。

ここは、不思議の真っただ中、です。さらに説明ですが・・・これを言葉にしなくても、言葉にしても、思考しなくても、思考しても、意味を汲み取らないでも、意味を汲み取っても、この事態、です。

海の公園の自動販売機の近くの排水溝です。

No.3845 - 2011/12/03(Sat) 09:44:05

Re: / peer
わからないけれど。
「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。
ヒトは自分の見たいように見るし、聞きたいように聞くし。
愛なんてない。と見ることもできるし。
すべてが愛。と見ることもできる。
となると、必要があるから、そうなる。
のではないかなぁ〜と思うんです。

異性がこちらを見てニッコリした。
もしかしたら、顔が引きつって笑ったように見えたのかもしれない。
でも、何か都合良く解釈してしまう。
「好意を持っているのかな」とか。
そういうふうに見たい、何かが・・・ある。
みたいな。
俗な例えで、すみません。

No.3846 - 2011/12/04(Sun) 03:32:27

Re: / ubik0101
>「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。

ほんとうです。

サッカー選手が、サポーターの大声援を受けてゴールを決めて。嬉しさ爆発。しかし、この、この嬉しさは、いったい何なんだ?嬉しさは、なぜ、嬉しさなんだ?なぜ芝生は芝生なんだ?そもそも、サッカーて何だ。なぜ、こんなルールでなくちゃいけない?この自分は何?その、あまりに当然の、基礎のところを問うた、その問い得るということは、スタジアムの外に出た証。のようなことです。

たとえば・・・愛なんてない・・・また総てが愛・・・異性の笑顔を解釈する・・・泣いたり笑ったり思考したりの日常。そのような、この世界の有り様を前提にしてることでなくて。この世界は、なぜ、この世界?この世界が、この世界でなくてもいい・・・それが、この世界(を不思議と呼んでいます)で可能。なぜ、これは、これ?は、そのような問いです。

ところで仏陀は縁起を説いたと言われています。けど。もしかして仏教者にとっては、とんでも話かもしれませんが・・・「 これありて、かれあり」これは仏陀の縁起の概要です。そして「かれなくて、これなし」これは縁起の消滅です。この世界にいながら縁起の壊滅こそ、解脱。そんな話です。

続きます。

No.3848 - 2011/12/04(Sun) 21:51:19

Re: / ubik0101
まあ、なかなか全体は理解できないですが、十二縁起の順観「無明・・・行・・・識・・・」つまり、知覚され得ない愚かな自我があって、それが人の、愚かな、囚われた、迷いの行動、発言、思考に現れて観測され得ます。そのことで識、つまり迷いの思考、いわゆる心理的思考、葛藤、苦痛、が起こります。ここのあたりを検討したり観察したりすることが掲示板で見られるようです。

が、次の項目「・・・名称と形態(名色)・・・」これは、さっき、ざっとネットで探ってみたら、身体と精神、のことされてるようですが、これはたぶん誤解。ほとんど思考の限界、その事態とその思考、に囚われてる、縛られてる、迷ってる、ことと睨んでいます。これが明確でないと、識の理解も不明確でしょう。

ま、ともかく、十二縁起の逆観、無明がなくなる・・・無我の自覚・・・と、迷いの行もなくなり・・・迷いの識もなくなり・・・迷いの名称と形態もなくなり・・・(ここは、総てはひとつ、を突破しないと見えません)・・・つまり縁起の消滅。この世界に生きながら輪廻からの解脱。そんな話です。

No.3849 - 2011/12/04(Sun) 22:06:05