>その、解放ゆえの分離はないでしょうか。
悲しかったら悲しいままに、腹立たしかったら腹立たしいままに。 放置しても、そのまま、消えていくものだから、そのまま感じていればいい、ということもあります。 しかし、こうして分離して「何が自分に起きているか」を知りたがるのは、自我の働きでしょう。 つまり「なぜ」を発したがる傾向を持っている。とも言えそうです。 自分と他者とを分け。自分と世界とを分け。自分をA自分B自分に分け。
自我が、理由を知らなくても原因を知らなくても、事実として在る。 ということは、本来は、全部「知っている」・・・のでしょう。 なぜここはこうなのか。なぜこうしているのか。なぜ自分なのか。を。 もしかして「知っている」は、「信じている」といえますか。 それが、ゆらぐことで自我が働く隙間が生じる。 自我には、理由がなくて「愛されている」ことを信じる事が出来ない・・・のかもね。 たとえば、いまここに在ることは、愛によって・・・・。
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No.3881 - 2011/12/12(Mon) 14:47:24
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