たとえば視線を、上下左右前後に巡らせば人は、あらゆる方向の風景を見ることができます。では、その現実の裏側を見てみましょう。見えるでしょうか?知覚は見えるもの、ことしか見えないのです。だから裏側はない、とはいえないのです。このように、なにも解らないまま機能してる、この日常の解らなさに、裸で頭から突っ込んで行くことができるのではないでしょうか?
ところで、さて。また、総てが壊滅してしまってるのに、星は星、電車は電車、これが日常が不思議、神秘ということです。それがなんであれ、たとえば、空気、水晶、鉄、熱い、寒い、喜び、怒り、思考、自分、そのこと。それは、どうしても、それがそれである理由を探ることもできないのです。
たとえば、なぜ見えるのでしょう?なぜ水晶は水晶なのでしょう?もしこれに、あるいは科学の、あるいは心理の、あるいは宗教・哲学の、解答が見つかっても、どこまでも、なぜ、それは、それ?それが何であるか知らない、ではないでしょうか。けど、たとえば空気、水晶、鉄、見る、聞く、寒い、怒り、思考、自分、などは、それとして機能しています。これは、なんなのでしょう?
続きます。
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No.3923 - 2012/01/09(Mon) 09:43:47
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