>今回は特に、というより少しお話しさせて頂きたいな、と思>い投稿したのです。 >→え〜、勇気出してコメントしたので、少しドキドキして頂>けたら良かったです。
えーっ!ドキドキ・・・はしませんでしたが、なにかうれしい〜〜。
こちら夫婦、空気読まずにすみません。お話、とてもありがとうございます。
> 了解とは、それはこの世界に、眼耳鼻舌 心意 よりほかの> ものがあるかも知れない・・・もっとほかのなにかがある> かもしれない・・・というあたりにもはや、彷徨うことがで> > きないことです。 > →これっ、ちょっと変人的なのですが、最近の、のりの状> > 況では、ムンッ!ってやると何かが止まる、消える?ので> > す。そして何かが静まり返る。思考は普通にできる。 > グッーとコレの後ろに行くと、この一般的世界から抜け出> す、軽く、静かでイメージも解釈も出てこれない。何かが静> まりかえるのですがそれが何かが分からない。 > この静まりかえる何か?に心当たりはありませんか?
自分のことでいえば、静か、との意味では、通常そのようにあります。ことさら考えたり、書こう・・・と奮起しないとき、或いは日常、とくにイメージしたり、考えることもありません。その静けさは、静けさと思われることもないかも知れません。日常、そのようにあります。
> 眼耳鼻舌はある。でも心意って、あるのでしょうか? > なんて彷徨ってるみたいです。
心意、というところは、のりさんの言われる通り、眼耳鼻舌 ・・・(ここで身体の意を得るとして、)感覚と、思考、感情・・・記憶された事情・・・世界の機能が働くことによって、なにか自分と思われ、意識され意図される・・・・ことを、心、と呼んだりしますね。それで、念のため自分は、基本の働きと、そこから派生する心と、意、はすこし離して書きます。意識は、焦点を当てる機能としてあります。これらは、ある・・・ない・・・の範疇のこの、世界です。
のりさんは、無我の頂き・・・のような状態を、垣間見ていられるのかも知れません。ubik0101さんは、「人無我・・・法無我を通じての非思量・・・かな・・・」と。
無我を深く進めて尚、「無我の骨頂」でないところに進むことは、容易ならないと思います。のりさんが稀な人、と思うのはその故です。なんと清清しい人かと思うのです。人が総じて潔白であることは、道を進む上で贈りものではないでしょうか。と思います。
そしてここで尚、進むことができると思います。
この掲示板で表現されるところの、自己。とは、たとえば、「なにかを考えるでない・・・考えないでもない」、すなわち、・・・・思うに非ず・・・思わずに非ず・・・との非想非非想・・・である無我の頂き・・・を超えて尚の、その自己です。この掲示板ではこれを通常、自己、と表現しています。(※ただし、止むを得ず話の展開上、多少無理でもこの言葉を充てることもあります)
ここでその自己に進むためには、知覚の範疇・・・この世界から飛翔すること、です。
> →そうでした。結婚されていたのでした。忘れてました。 > ごめんなさい。
えーっっ!!!謝らないでください。とんでもはっぷんびっくりしました。
そうですね、結婚といえば、。
結婚してから、(ubik0101さんの)結婚てなに?とubik0101さんに聞いたら、
「ここも、一緒。向こう(人生を終えてから)も、一緒。」
ここもあそこ・・・も、どこに行くもないとして。きっと誰にとっても、本当はそうあれば幸いでしょう。この世界は、人が依存できない道具であるとしても、人の大事な表明です。方便としてこの身体、この事態、なぜ、これにある必要があるのか?として、
人がそれであるとき、人生は奇妙にも、その意味で疎かにできないことを得ます。ここでできないことが、死んでからできるようにならないでしょう・・・というよりもちろん、雪の落ちるところは無記と言い・・・・ですが、ここは要注意です。たとえば、こうした掲示板上と日常が乖離していたら、気の毒なことです。
探究中は、捨てるもの、放たらかしがたくさんです。ですが、生の表現、それはまるごととして大事、ということはいつか、知らされざるを得ないようです。
> <不可逆 >更新されていたのですね。読ませて頂きました。
不可逆。一昨年でしたでしょうか。何を書いたか、忘れてました。書き出すことはことに、確かな表明です。出来る限り注意深く、大事にします。でも、すぐ忘れてしまうのです。ありがとうございます。
>→う〜、行ったり来たりしてる。まずい。 >ミンナこっちに来たままなんでしょうか? >感覚的にはどうなのでしょう? >ちょっと気になります。
もちろん、いつでも世界の道具を用いることは可能です。けれど、先ずは、後戻りができないところまで進むことが、誰にとっても先決でしょう。「いいわるい、ではない、善いを」ということは、業や行・・自我無我・・・・とのあたりを抜け、進み行き、その上で意志が起きてなされるように。自己で行われる、のです。
このとき、理解は、それを表出すると意図したときに、起こってくることができるでしょう。ふたたびここでも、感受、との感じはありません。それはつと起こります。さまざまな教えや、(自分はよく知りませんが)経典は、とある不可思議に舞い戻り・・・・意識されずとも、折々、自由に取り出せることを得るのではと思います。それまでは、言葉に学ぶことが大事と思います。知覚とは、差を見ます。それは、方便として用いることができるのではないでしょうか。
のり、さんは道を誤っていないと思います。のり、さんにしかできない極上の道ではないでしょうか。
明日、東京あたりは、雪だそうです。
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No.3988 - 2012/02/28(Tue) 21:48:27
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