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記事No.4139に関するスレッドです

世界。 / ubik0101
なにかを思考しようとするのですが、思考する前に思考が打ち消されてしまうのを感じます。そこに世界が現前・・・見たり聞いたり・・・歩いたり・・・それでまったく問題が生じず安定して楽で。どうも、そういうことが日常の機能としてあるようです。

それがなぜそうなのか思考しようとしても、なかなか困難です。が、それは世界が対象でない、からかもしれません。たとえば意識には、その対象としての限定された内容が付き物で・・・それを思考と呼ぶとして・・・その内容は仮に世界から切り取ったこととして、生起するようです。

なんでもいいのですが、たとえば花と蜂。それぞれの関係を考えるということは。すでに花と蜂を世界から切り取って、特定の個別のこととして、関係を探ってるのではないでしょうか。その、花と蜂は、空想です。実際の、花と蜂ではないのです。それが実際の花と蜂ではないから、なんであれ関係が思考できるのではないでしょうか。

続きます。

No.4132 - 2012/08/18(Sat) 10:56:25

Re: 世界。 / ubik0101
それでも思考は実情に合っているように感じるかもしれません。思考は空想だとしても、実際には、花の蜜を蜂が求めて受粉する、のです。これは事実でしょうか?このこれも、特定の個別のこととしての空想ではないでしょうか。

ここは、思考のないところでは、つまりそれを対象にしないところでは、花と蜂は、そのような事実の関係にある・・・と、思考する前、空想するその前に、事実が曖昧なまま前提にされてるかもしれません。

どうやら、ここは混沌としていて。思考は、対象にして切り取った空想と、そうでない事実を識別する機能がないことにおいて成立しているのではないでしょうか。

おおまかに言って、思考は空想です。そして対象とするということは、こっちと、あっち、なにか特定の個別のもの、こととの距離があるのではないでしょうか。そこに気がつかないと、ことさら空想と事実の区別は、ないがしろにされる傾向にあるようです。

ところで。その、特定の個別のという意味での、内容がない意識・・・なにかを対象にしない・・・距離がない・・・あるいは内容だけで意識がない・・・それを、ほかに言いようがなく、日常と呼びます。

その日常ということは、対象としての思考ができず、人は誰も同じだからとか、誰も違うからとかいうことも生じないので。もともと表現して伝えられることではないのかもしれません。けど、そこを無理を承知で、探ってみようと思います。

というのは、世界を対象にできない、この日常。これで楽なのですが、これがどうも、そのままだと地球の重力圏というか、それを突破できないように罠としても働いてもいるようなのです。

そいえば詳しくは知りませんが東山寺、せったん和尚が・・・200パーセント元の木阿弥・・・とか言ってたようです。100パーセントの天真爛漫、知覚からの直接行動、それじゃ足りないんだよ。という真意があったのかもしれません。

続きます。

No.4133 - 2012/08/18(Sat) 12:23:58

Re: 世界。 / hato

夜、外に出てみると、もう空気がひやりと肌に涼しいのに驚きます。

夏の終わりの星空を見ようと外に出て、ライトを消して、暗いなかを見上げると、大きな杉の木の背後に満天の星星の、数え切れない小さな粒が、薄い光を放っていました。

天の川の粒子が微かに広がるのを、頭上にじっと見ていると

ふくろうがギャオ・・・と鳴いてどこかにいきました。


そのとき世界は

まったく自然の様相を繰り広げており

これに、この感覚器官に触れないところの泉から

見ることと言葉は起きていて

生は個々の事象や問題に

まったく携わりながらかかわらず

その星空に、

見ることは初秋夜半の風のように

涼やかに

過ぎるようです。

No.4134 - 2012/08/19(Sun) 23:11:12

Re: 世界。 / ubik0101
ところで、世界から切り取った特定の個別のとある、もの、こととして・・・花と蜂であれ、人間関係、噂話であれ・・・思考されてるのです。これは実は空想ですが、特定の個別のことだからという理由で、事実として見なされているのではないでしょうか。

そんなことができるのは、思考には思考と事実の区別は備わってはないからです。が、それは、いつも思考は、ここにないこととして思考してる。思考対象との距離があることに気がつくだけで、気がつきます。

ちょい余談ですが。たとえば誰かから、褒められたり卑下されたり無視されたりしたとします。その誰かの言動の真意を探る・・・それは歩きながら寝ながら仲間と談笑しながら憤慨しながら1人悩みながら・・・ここに実際にない関係を空想してるのです。

それもいいでしょう。けど、この自分が、どうしてたとえば卑下されたと感じるのか、どのようにそれから逃げてるか、その自分の奥を探らねば、ここに実際にある、空想でない探究は始まりようがないのではないでしょうか。そして、たったそれだけですむようになっています。

話を戻します。この知覚できない自分、そして見たり触ったり聞いたりできる・・・鳥や樹や時計や親や他の人。観念。概念。これを特定の個別の対象として見なすならば、こっちの知覚されないことと、あっちの知覚されることに距離があって、そうとは気がついてなくても、世界との分離とも言えるでしょう。

続きます。

ジャリ道に、庭のダイカンドラが、こぼれ繁っています。

No.4135 - 2012/08/20(Mon) 10:59:33

Re: 世界。 / ubik0101
そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです。

それは、この見聞きする主体がなければ、見聞きすることはできないという、とても当然で理論的なことを背景にしています。けど、それは誤りです。なにか特定の個別の主体があれば、見聞きできないのです。見聞きすることは、その中心が、どんなことでも何でもないので、見聞きができるのです。

くり返します。なにかを見聞きすることで構築される仮の主体、僕、私、俺と呼ばれる自分。これはまず初めに、その主体があって、なにかを見聞きするのではありません。見聞きされることで、そんな関係、虚構としての僕、私、俺。そんなこととしての、あなた、君、わたし達が、仮定されるのです。

けど、これは、そもそも自分よりも世界が先立って、ある、です。そうとは気がついてなくても、そうと夢にも思わないでも、世界に依存してる状態です。たぶんこれは過去・・・古生代も・・・明治も大正も昭和もあった。世界は自分が生まれる前からある、死んだ後にも未来はある。という雰囲気にあるのではないでしょうか。

続きます。

桜の木の下に置かれた、屁糞葛の絡まる白い椅子です。

No.4136 - 2012/08/20(Mon) 11:21:04

Re: 世界。 / ubik0101
これは、たとえば自分が山に登る、のではないです。自分が書を読む、ではないです。自分が泳ぐ、ではないです。まったくの逆です。山に登ったのが、その自分です。書を読むことでその自分がつくられた、です。泳いだ、そのことに反応してつくられたのが、その自分です。

これは磁石に接近した鉄片が、磁気を帯びるように。そうと気がつく気がつかないに無関係に。世界に、まったく依存しています。その世界は、おそらく時間的にも、空間的にも、始まりも終わりもなく無限、と感じられるかもしれません。それは重いのです。

そのような雰囲気で、一般的にも、山に登ったり、書を読んだり、遊んだり、怒ったり、仕事をしたりして経験を積んでるその経歴で自分がつくられてる、と言うのです。

このようになんだかの経験に、見たこと聞いたことに、思考に、自分はつくってもらってるのです。 なのに人は、まず自分があって、なにかをしてると思い違う・・・それは顛倒、倒錯・・・です。

そこで、それらなんだかの見たこと聞いたこと、感情、思考、行動、経験を、誰かから蔑ろにされると。そのことによってできる自分が傷ついたと勘違いもできるでしょう。・・・なんだかつまんない説明の連続です。けど、ここも総てを見なくてはなりません・・・。それは大雑把な表現では、自分の経験に同一化してる、とも言えます。しかし、なにに、なにが同一化してる、というのでしょう。

なにかを対象にすることによって、あるかのように生じる仮の主体。それは虚構であり、生じてもいないのですが・・・その対象になってる経験などが蔑ろにされることで、その自分の発生する原因が傷がつき・・・それから派生してるその自分が傷つくと感じる、のではないでしょうか。 その傷つく、ということ、その、ないことにさえ耐えられない、なにもないことに恐れることもあり得るでしょう。

続きます。

No.4137 - 2012/08/23(Thu) 15:09:02

Re: 世界。 / ubik0101
これはそうと意識してなくても、ほかの人、また人一般への依存です。それから派生して、ほとんど自動で、ほかの誰かの意見に反対する、追従するということも起こったりします。そこでは人は、そうとまったく気がついてなくても、その仮の自分がつくられる虚構の範疇にしか、いないのです。

その虚構を、堅い構造であるかのように支える材料として、見たり触ったり聞いたりだけではなく、喜怒哀楽、不安。心配。さらに、 思考、行動。性別、年齢、家柄、地位、名誉、学歴、知識、そして優劣、損得、善悪などの概念、観念など、ありとあらゆる、もの、ことが使われます。

よく言われるようには、思考だけが問題ではありません。それは、あっちとこっちという空間的な距離。また時間的な距離に依って可能になっていて、その対象は選びません。

そして、それら知覚、感情、思考、行動、概念、観念は実際は。自分という、あるいは自他の区別という虚構を支える材料としては、これでしかないということでの個別性がなく・・・そもそも虚構であり・・・根拠として役には立たないのです。

けど、対象になるどれをとってもその仮の主体をつくりだす・・・かのように見えるので・・・支離滅裂に転々と対象を変えながら、その虚構が、確かな構造として成立してるように思わされる。そんな傾向にあります。そして、たとえばこのような説明ができるということは。思考が、その人の事態とは無関係ということを示します。

ここで、たとえば、ですけど。自分は、ない、と言うならば。その、ない、という思考、表現と、ない、という事態が一致してるかを検証。ある、と言うならば、おなじように検証。そして、ない、ある、という意味を正確に定義しようと努めねばなりません。でなければ、ある、ない、の無知に乗って、あるないと思考、発言、してるのです。このように探究が展開していくのは必然ではないでしょうか。

続きます。

No.4138 - 2012/08/23(Thu) 15:27:14

Re: 世界。 / ubik0101

なんて巨大!でも意外にみずみずしい、

つぶつぶ光って健康な、とてもきれいな苦瓜です。


体長35センチ強。明日、知人にお裾分けします。

No.4139 - 2012/08/25(Sat) 21:44:16

Re: 世界。 / 彷徨
ビター、コーヒーゼリーにもメープルシロップ入れてしまう、僕には…、よし、勝手な理由で好きになって見よう。苦いは苦手、苦手は得意、ではなく、苦いは苦い。味覚は味覚。
その裏で甘いが好きな自分は苦いのが平気な人は大人を演じてる、本当は我慢してると、嘲るから、
甘いが、好きな自分は、子供心、とか素直とか、まあ、こんな感じの優越感ですか。
続、楽しみです。

No.4140 - 2012/08/25(Sat) 23:36:10

Re: 世界。 / ubik0101
たとえば、ふと。しょぱい塩と、甘い砂糖は、逆の味なんだろうか?さらに、酸っぱいとの、辛いとの、その関係はどうなってる?ということに気がついて。そーだ、たとえば慈しみと憎しみは。楽しさと苦しさは。好きと嫌いは、対になった、逆の感情ではないのだ。

もしそれが対として固定されてるなら、どうして、いろんな感情を感じることができる?つまり対になってると思うのは人の味覚や感情に対する、印象。変調。概念。と考えたことがあります。

このように味覚ということからも、そこから人それぞれの意味を汲み取ることができて。それを勝手に人が意味をつけるだけで、はじめから、もの、ことは無意味だと見なしてはしょーもない・・・無意味と言うならば、無意味ということを定義するように努めればいいのです。

とか・・・そんな思考も食物のように消化されて見えなくなって。見えないから機能してないわけではない、とか。結果的にはそんな思考の内容もですが、そんな思考の運動をしたことが大事だ。と了解される、です。

No.4141 - 2012/08/26(Sun) 09:51:56

Re: 世界。 / hato

森羅万象。

鳥が鳴き・・・魚が泳ぎ・・・流れる風に、雲間の日。

限りなく、並び連なる一切その万象に、まったく近く、同化しない、興味と言い難いところの見ることに、けれど、貶めることないその世界は、まったく、畏怖そのものなのにいとおしい、小さな、なにかで、その風は、

つい瞬くときに、去ってしまって残る、永遠です。


すこし遠出して、あたりを見渡すと、夏の終わりの風景が広がっていました。

つい最近、田植えをしてるところを見かけたはずが、もう収穫してる家もあり、はやいはやい。稲穂は黄金いろ、たわわに豊かに、実っています。

No.4142 - 2012/08/29(Wed) 22:39:47