その行動、発言、思考によって、その自分がつくられます。それでは、たとえば、善い行動、善い発言、善い思考をすると、その善い自分がつくられます。悪いことをすると、悪い自分がつくられます。これは、依存によって、世界が人を育てようとしてる。とも言えます。
ここで、世界に依存しながら・・・いったん磁石に接近した鉄片が、磁石から離れても微かには磁気を帯びるように・・・ふつうの笑ったり泣いたり学んだり遊んだりの生活で充分であり、善いことをすると人は自然に善の特質を帯びる。とも言えます。
しかし、ここで思考に聞いてみましょう。善悪とは何でしょう。そうです。あれこれ答えるかもしれませんが、なにが善で、悪か、思考は知らないのです。なぜそれがそうなのか。その根拠は曖昧ではないでしょうか。もし知らなければ、世界や人に依存しながら育ってるのは、実際は偽善の特質かもしれません。
あるいは傲慢の特質かもしれません。善悪に隠れた損得かもしれません。というのも人は、これは偽善だと感じながら、偽善するとは限らないのです。偽善と感じないでも、偽善もあるのです。 すこし外れますが、良かれと思って害することもあるのです。
ここで、探究するならば、なにかの思考、たとえば善悪の思考のその前提、設定条件を疑わねば、曖昧なままの判断であり、探究とは言えないのではないでしょうか。それで改めて、その自分の言う、善悪を、優劣を、自由を、あるない、自我・・・意地悪・・・誠実・・・公平・・・を、定義するように努めねばなりません。そこで自分はどうあるのか、その姿勢、態度。日常どうあるか、ということが大切になります。
続きます。
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No.4143 - 2012/08/31(Fri) 14:03:40
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