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記事No.4149に関するスレッドです

世界。続。 / ubik0101
その行動、発言、思考によって、その自分がつくられます。それでは、たとえば、善い行動、善い発言、善い思考をすると、その善い自分がつくられます。悪いことをすると、悪い自分がつくられます。これは、依存によって、世界が人を育てようとしてる。とも言えます。

ここで、世界に依存しながら・・・いったん磁石に接近した鉄片が、磁石から離れても微かには磁気を帯びるように・・・ふつうの笑ったり泣いたり学んだり遊んだりの生活で充分であり、善いことをすると人は自然に善の特質を帯びる。とも言えます。

しかし、ここで思考に聞いてみましょう。善悪とは何でしょう。そうです。あれこれ答えるかもしれませんが、なにが善で、悪か、思考は知らないのです。なぜそれがそうなのか。その根拠は曖昧ではないでしょうか。もし知らなければ、世界や人に依存しながら育ってるのは、実際は偽善の特質かもしれません。

あるいは傲慢の特質かもしれません。善悪に隠れた損得かもしれません。というのも人は、これは偽善だと感じながら、偽善するとは限らないのです。偽善と感じないでも、偽善もあるのです。 すこし外れますが、良かれと思って害することもあるのです。

ここで、探究するならば、なにかの思考、たとえば善悪の思考のその前提、設定条件を疑わねば、曖昧なままの判断であり、探究とは言えないのではないでしょうか。それで改めて、その自分の言う、善悪を、優劣を、自由を、あるない、自我・・・意地悪・・・誠実・・・公平・・・を、定義するように努めねばなりません。そこで自分はどうあるのか、その姿勢、態度。日常どうあるか、ということが大切になります。

続きます。

No.4143 - 2012/08/31(Fri) 14:03:40

Re: 世界。続。 / ubik0101
すこし関係ない話をします。この前、ショッピングモールの中の広い通路に並べてあるソファに座っていました。すると、向こうから歩いて来る男性が、自分なのです。ん。どうしたんだろう。年齢、違います。服装、違います。表情、違います。たぶん、性格、違います。

でも、自分なんです。だんだんその男性は近づいてきて、その人が自分だという感じが濃厚になってきます。そして、通り過ぎました。すると、その男性が自分、という感じも消えました。ときに、猫が自分だった、電信柱が自分だった、道で働く労働者が自分だった、という話を聞きます。

それはまあ見えてる何かが自分、と感じるということなのでしょうか。そこで見えてない何かは、自分とは違うのでしょうか。そうだとすると、見えてる聞こえてることによって、自分はつくられるのだから、見えてる何かを自分と感じるのは、当然かも知れません。

そこで空想を逞しくします。世界は自分。総てはひとつ。みんな自分。といったことは当たり前のことで。その対象と、それによってつくられる自分・・・磁石に接近した鉄片のようなことで・・・その磁気の関係の外にはでられない、ということのようです。それはどうも、それだけなら、自我の限界を示してる現象だと思います。

続きます。

No.4144 - 2012/09/01(Sat) 09:13:27

Re: 世界。続。 / ubik0101
話を戻します。けれど依存によって、世界が育てようとしてるのは、いかなる思考でも思想でもありません。善いとか素直とかの、気持、特質でもありません。その、人、そのことです。

それこそが大事です。ここのところは、実は、なにか思考すること、その内容。その範疇のことではなくて。いわば、その思考の、発言の、行動の、運動の場(と、呼んでおきます)、の性質に関わります。

たぶん善悪を思考するとき・・・あらかじめ・・・人は、それなりの善の立場に自分を置いてから始めてる、のではないでしょうか。極端に言えば、戦争、喧嘩してる両者だって・・・それぞれの周囲とは仲良く、悪を避け・・・それなりの、そんな正しさに、ずっと前からいるのです。

そんなそれなりの正しさは、昔からの連綿とした歴史、文化などで変調されて現れたりもするでしょう。それで、その正しさに強固な根拠があるように思わせられることができることもあるのでしょう。

その運動の場、いわばパソコンのOS上、で機能するワープロソフトのように、その思考は派生してるのです。そしてその運動の場を疑いの対象にしないというだけで、その上に乗って、勝手な善悪の思考、発言、行動がなされるのではないでしょうか。 いくらでも正しいという理由は見つかるでしょう。

それは敵が侵略してくるとか、誰かが自分を非難するとか、蔑ろにするとか、誰かが間違ってるとか、誰かが自我が強いとか・・・空想であっても、それが空想と気がつかないということとして・・・その自分は守らねばならないとか・・・それなりの善に立場が、根拠があるのです。

そして世界はそのような空想を事実として・・・戦争・・・喧嘩・・・軋轢・・・も見せてくれる、提供できる、機能があります。どこまでも人のために働いてるのです。

続きます。

No.4145 - 2012/09/02(Sun) 11:49:55

Re: 世界。続。 / ubik0101
そんなことに気がつかないでも、そんな争いの範疇にいて行動、発言、思考するのは、人、としての偏りです。この自然な、透明な、中道な世界にあって、たとえばそれなりの善に偏るという不可能なことを、人はなしとげようとしてるのです。

この偏りを、行動の、発言の、思考の、エネルギーの発生源にしてるのです。それは、なんでもないところからはエネルギーが発生できない、と誤解してるのかも知れません。

くり返します。このような、行動、発言、思考の前提になってる場の偏り、それは誰だって背景に、あるいは微かに、あるいは濃く感じるのですが、ふつうはそれを見えない隠れた前提・・・そうでなく顕わにされるとそれだけでその前提はもしかして正しくないかも知れないという疑いが起こるでしょう・・・にしているので、それに切り込むのは、かなりの努力を要するのが普通です。

そこで社会や世間に立ち向かう、反抗する、あるいは折り合いをつけて、隠れて愚痴を言う、傍観する・・・それで過ごしてしまう人生もあるかもしれません。どうしましょう?簡単です。どのような状態であれ、ただその自分に切り込みさえすればいいのです。思考には、それができるのです。

ここにもこんな偏った愚かな自分を守っていたいという自己保存は働くのですが、それもまた打ち壊すべき壁として役に立ちます。それは・・・衝動、情熱は必要ですが・・・もう世界が、あり得ないほどの偏りさえ用意してくれているし・・・それを探るその努力・・・それだけのことで、済むのです。

続きます。

たぶん、ヘチマの雌花です。実が20cmくらいになると食べ頃だそうです。

No.4146 - 2012/09/02(Sun) 12:50:46

Re: 世界。続。 / ubik0101
たとえば、です。善に偏ってる思考の運動の場それを明るみに出すと、その運動の場が偏りであることが顕わになります。すると、その運動の場に正当性がないことに気がつき、そこで活動してる、自分は正しいと表現しようとしてる思考は正当性を失います。

というより初めから正当性はないのですが、そのことに気がつかないというだけで、正当性があるかのように機能してたというだけですが・・・その思考だけではなく・・・雰囲気・・・たとえば、自分は正しい気持、気分、も消えます。

このことは自分の、主に思考のその基礎、立場を削っていくことであり、否定の道と呼んでいます。自分が自分と見なす自分の基礎が、どんなことであれ、失われていくのですから、これはそう望んだからというわけではなく、それを実際に歩くことで、素直にならざるを得ない道です。これは1人あらねば困難かもしれません。

続きます。

No.4147 - 2012/09/03(Mon) 11:41:52

Re: 世界。続。 / ubik0101
また、たとえば誰かを非難するとします。意地悪だ。卑怯だ。偽善だ。自我だ。そのように思考するならば・・・その意地悪、卑怯、偽善、自我・・・が、まったくこの自分にないのなら、そう思考できるだろうか?つまり、それまで気がついてなくても、思ってもなくても、意地悪、卑怯、偽善、自我な自分かも知れません。 と思考したのです。

このことは、なにかの状態であれば・・・たとえば葛藤があれば葛藤と・・・自我であれば自我と・・・必ず知覚されるはずだ。あるいは知覚されないなら、それはないのだ。という、それまで気がつかなかった、暗黙の前提、偏りの運動の場に切り込んでいることだ、とも言えます。

また。あれは自我だ、と。誰かを批判するなら、そのことによって、その自分がつくられます。その対象になってる、たとえば自我という関係からは外にでてない自分が、あるかのように設定されてしまいます。それで、その逆の誰かを批判しない生き方も生じるかも知れません。が、それは偽善かも知れません。その自分を矯正したのかもしれません。

続きます。

No.4148 - 2012/09/03(Mon) 11:56:35

Re: 世界。続。 / ubik0101
このことは、その言動そのことが、たとえば意地悪、卑怯・・・自我と見なす・・・その思考はその人の事態を現す・・・という特定の前提、条件設定によって、つまり偏りの場にあって、思考が運動、展開されてる。そこに切り込んでることだ、とも言えます。

ここで、思考はその人の事態を現すというだけではなく、その事態を現さない、ということも含めて見るなら、意地悪、卑怯・・・自我だと決めつける、判断する思考に正当性はないはず・・・でも、現す現さない両方あっても不可。善だけでも、悪だけでも、両方あっても不可。さらに探究を要する・・・ここは複雑で、無意識でさえそれは行われるので、うまく言えてるか疑問ですが・・・です。

それは、たとえば食物が食べると消化されて、見えなくなるけど、人の血や肉になったから・・・たとえば香水を着けて慣れると自分では匂わなくなるように、思考は一般化して消えること、や。それが、ほんとうに、ない、から知覚されないのだ。という思考にかからない微妙な違い・・・この日常に、誰に頼ることなく、そのありかたを生きることになります。

続きます。

100円ショップで買ったカゴに乗るチュリルを、横目で見てる、ノンノンです。

No.4149 - 2012/09/03(Mon) 12:21:22

Re: 世界。続。 / hato

ねえ、ノンノン。チュリルと仲良くね。

チュリルはノンちゃんの、友だちになりにきてくれたよ。


秋すこし前の日、知人が つるむらさき、あげる、と言って、苗を二本くれました。根が落ち着くまで水差しに入れて、玄関に置いたのを眺め、七日後の昨日、ubik0101さんが、庭に植えてくれました。知人はその後、摘み採った葉を一掴みくれたので、鶏がらスープと、刻んだニンニクと一緒に炒めたつるむらさきを、美味しく頂きました。

つるむらさきには、紫の茎と、緑の茎のタイプがあるそうです。緑の茎のが美味しいよ、ということで、緑の茎のつるむらさきです。

No.4150 - 2012/09/03(Mon) 23:05:50