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記事No.4155に関するスレッドです

世界。続。続。 / ubik0101
たとえば、です。火のついてるタバコを道にポイ捨てする誰かを見て、怒り、善悪を問う思考をしたとします。それは、自分と相手という、分離に偏ってる、そのことで感情や思考を生じさせたのかもしれません。けど、それはまるで相手を自分かのように思って・・・その分離を活用して・・・反応してるとも言えます。

また、そこで。おなじ行動を見ても、まったく知らない人と、家族、友人知人に対しては態度が違うかも知れません。善悪を問う思考をしたけど本人に発言しなかった、ほかの誰かと話して噂話にした、本人に発言した。そんなことの、それぞれの理由、前提、動機もさまざまにあるかもしれません。

なにか指摘するとしても、ふつうに丁寧に言えばいいのでもあるので、怒ることは、相手への攻撃だということもあるでしょう。自己顕示かもしれません。 そこに常識とか教育とかの拘りがあったのかもしれません。

また怒ることが、あるいは優しくなだめることが、冷静に観察することが、ほかの誰かから良い立派な人に見られるようにという偽善だったのかもしれません。自分で自分のことが知覚できる気がするためにしてる、ということなのかもしれません。

続きます。

No.4151 - 2012/09/07(Fri) 12:59:48

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
ただ単に火の始末という危険予防の、こと。かもしれません。またそれは、自分の損得の範囲でのこと、社会、地域の範囲のこと、もあるでしょう。その奥には、 それなりの善に偏っていることがあって、またあるいは事実を変調、意味づけて、怒りや思考が反応したのかもしれません。

このように、タバコのポイ捨てを見て、反応した怒り、思考するということだけでも、含まれてるさまざまな意味が見つかります。これは、おなじことから違う結果を見つけた。のです。

また逆に、たとえば分離とか、損得とか、それなりの善とか、自己顕示とか、偽善とか、実用的な火の用心。それぞれ、おなじ結果から違う原因を・・・自分の行動、発言、思考を・・・見つける。こともできるでしょう。

ここはまた、それまでなにがなんだか自分で意味も判らず、それが有効かも分からず、ただ自分を知りたいという衝動と情熱で続けてきた否定の道の、その踊り場を見つけたようなことで、一息つけるところです。

ここで探究は、特定の個別の前提に縛られる必要がなくなり・・・そうとは意図、意識しないでも・・・結果的に思考とその事態はガチガチに接着されたものではなく、脱着可能であり、その自由度が増します。

続きます。

No.4152 - 2012/09/07(Fri) 13:04:22

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。

そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

そこで「何で自分だけがこんな病気になるのか?」の答えは、ほかの原因・・・たとえば普段の行いとか、宿命とか、因果とか・・・探っても見つからないのです。それら思考は、みな空想です。ただ病気になったら治療をする、その他では・・・悩んでも、苦しんでも、平然としても・・・解決しません。

なんでも同じなのですが、どうして自分は不幸なのだろう。どうして評価が低いのだろう?どうして苦しいのだろう。そのような苦しいによってその自分が、あるかのようにつくられてるのだから、ほかのどんな理由を探っても、解決しません。

もちろん病気や仕事は、医学や経済や技術、知識で改善することができるでしょう。でもこれは、いわば外の世界を変えようとしてることで、それができない・・・苦痛・・・ならそのできない、現実においてそのできない自分がつくられる・・・それは依存です。

続きます。

ヘチマ、収穫しました。意外に、ずっしりと重く、皮は弾力があって硬く感じます。

No.4153 - 2012/09/10(Mon) 10:14:32

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
そしてまた、たとえば、病気が治った。出世した、幸せになった、楽になった、平穏になった。それだけでは、依然として、その幸せ、楽、平穏を感じるところの・・・現実、世界に依存です。もともとの原因。なぜそう思う、その自分は何?を探究せねば、解決しません。

このようなことは、いわゆる仮の主体、自我にあってでなくては、困難です。その仮の主体を背景、前提、パソコンで言うならOSとして、その上に乗って、その日常の発言、思考がなされているのです。そして自我は、ここで学べるだけのことを徹底して学ぶことができます。

それが可能なのは、つまり言葉、思考が、その根拠とは無関係にも発生する、まるで浮き草のようなことだから・・・思考は、その根拠に切り込めるのです。ワープロソフトがOSを探査するように、自分の状態、事態を見ることができるのです。たとえばあの人は自我が強い、権力欲に囚われてる、偽善だ。卑怯だ。

と言うとき人は、その自我、権力欲、偽善、卑怯、を知りもしないで、定義できてもないのに、言ってるのではないでしょうか。なので、その定義が必要です。自分の言ってる意味を探る、ということです。

続きます。

ピーラーで皮を剥いて、輪切りにしてみました。繊維質ではなく、柔らかく、しっとりしています。そのまま齧ってみました。なんだか初めてなのに懐かしいような新鮮な味です。サラダでもいけるかもしれません。

No.4154 - 2012/09/10(Mon) 10:26:52

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
でも、ふつう思考は、表面だけのことであり、根がない浮き草であり、その根拠を、その前提を、まったく知らないのです。ここに重心を置くなら、どんなことを思考しても、発言しても、行動しても、まったく引っ掛かることなく、躓くことなくあります。

これは否定の道を歩いて、ある意味。始めは真っ暗闇だったところから・・・偽善を抜き、嫉妬を抜き、傲慢を抜き・・・赤を抜き、青を抜き、黄色を抜いて・・・行動の、発言の、思考の運動の場が、白く、透明に、なって・・・思考とその事態が脱着可能になり、思考は根拠なく働いて問題がない、とも言えます。

ふつうの生活にあって、実際、どちらにも傾いて思考してるのです。 ただそれが自我にあっては、楽しくても、苦しくても、平穏でも、現実。その自分は世界に依存してつくられる、ということです。

続きます。

フライパンで、サラダオイルと、ベーコンで炒めて。こんぶ出汁(粉末)を振りかけてみました。これはいけます。美味、の範疇です。

No.4155 - 2012/09/10(Mon) 10:40:31

Re: 世界。続。続。 / hato

涼しい風。朝晩の空気がすっかり、ひんやりしていて、強い日差しを薄めるかのような数日です。朝のその時間、うつくしい田圃を見渡すか、かわせみのいる、川添いを走るかを決めます。

ヘチマは、柔らかく、ふにふにと気持ちいい舌触り、やさしい菜です。炒めものや、オイルを使う料理が合います。形もユニーク、素敵です。


出かけた牧場に、小さなポニーがいました。

柵で胸を、掻いています。

No.4156 - 2012/09/10(Mon) 23:01:09

Re: 世界。続。続。 / ubik0101&hato

なんでもいいのですが、たとえば「何で自分だけがこんな病気になるのか?」「どうしてこんなに苦しいのか」「自分とは何?」と思考することで、その思考するその自分がつくられます。

なので、ほかの、あれこれの、どんな理由・・・たとえ人間関係を、善悪を、優劣を、過去を未来を、運命を、因果を、また前世を、また来世を探っても・・・その何かを特定の個別のこととして対象にすることでその自分がつくられるので。その答えはでません。

ただ、その自分・・・仮の主体・・・が、あるかのようにつくられるその仕組みを知ること、で決着します。このことは、つまり、自我に於ける、どんな探究も、どんな疑問も、どんな言葉も、どんな行動も、自分とは何?に収斂する、ということです。これが自我の機能です。

続きます。

ubik0101

中田島砂丘に行きました。日本三大砂丘のひとつ、とのことでしたが、んー、遠州灘のとある海岸との感じでしょうか。ubik0101さんも、日本に砂漠てないてことかな、日本は緑の島だなー・・・

hato

No.4157 - 2012/09/13(Thu) 21:54:48