つまり、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。そのために、あらゆることが活動しています。たとえば小さな木の芽が成長するためには全世界が働くことが必要で、そのように世界が働いています。
くり返しますが、その自我の仕組みは、次のようです。 このことは、それを見る、それを聞く、というよりも。それが、それを自ら開示する、ことです。しかし、それは思考され得て。このように言葉として、そのままを表現できます。
《そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです 》。
この関係から外れるにはどうすればいいいでしょう。それは・・・その対象である世界が消えればいいのです。あるいは自分が、ない、ならいいのです。
あるいは、なにか対象と完全に同一化すれば。あるいは、まったくどんなこととも同一化しなければ・・・どちらにしても対象との空間の関係ができず・・・いいのです。あるいはこの今にあれば・・・時間の関係ができず・・・いいのです。
あるいは、ありとあらゆる、もの、こと森羅万象が総て活動すれば、いいのです。そこで、なにか特定の個別のもの、こととの関係を凌駕するのです。これはここでは縁起、世界の総活動、あるいは中道、と呼んでいます。
続きます。
お隣さんが自分の家の、お茶の垣根からこぼれた種から芽生えた苗をくれました。しばらくは植木鉢で、大きくなったら庭植えにするつもりです。
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No.4158 - 2012/09/15(Sat) 09:38:03
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