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記事No.4158に関するスレッドです

世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。そのために、あらゆることが活動しています。たとえば小さな木の芽が成長するためには全世界が働くことが必要で、そのように世界が働いています。

くり返しますが、その自我の仕組みは、次のようです。 このことは、それを見る、それを聞く、というよりも。それが、それを自ら開示する、ことです。しかし、それは思考され得て。このように言葉として、そのままを表現できます。

《そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです 》。

この関係から外れるにはどうすればいいいでしょう。それは・・・その対象である世界が消えればいいのです。あるいは自分が、ない、ならいいのです。

あるいは、なにか対象と完全に同一化すれば。あるいは、まったくどんなこととも同一化しなければ・・・どちらにしても対象との空間の関係ができず・・・いいのです。あるいはこの今にあれば・・・時間の関係ができず・・・いいのです。

あるいは、ありとあらゆる、もの、こと森羅万象が総て活動すれば、いいのです。そこで、なにか特定の個別のもの、こととの関係を凌駕するのです。これはここでは縁起、世界の総活動、あるいは中道、と呼んでいます。

続きます。

お隣さんが自分の家の、お茶の垣根からこぼれた種から芽生えた苗をくれました。しばらくは植木鉢で、大きくなったら庭植えにするつもりです。

No.4158 - 2012/09/15(Sat) 09:38:03

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
あるいは、なにかを対象にすることによって、その自分が、つくられなければ、いいのです。たとえば子供の頃はつまらないことにも気になって執着させられていたかも知れません。ニキビ、髪の癖とか、つむじの巻き方とか、それにまつわる自尊心とか、劣等感とか・・・でも大人になるとその事態は同じでも、そんなことには執着させられなくなります。

たとえば噂話、それにまつわる友達関係、スポーツ、勉強、服装、趣味、食事、嗜好・・・それにまつわる苦痛や快楽の心理的依存・・・そいうことから自然に卒業する。つまり、たとえば社会に生きて、おなじ雰囲気に暮らしても・・・ほかに興味が移った、そいうことを忘れた、というのは別問題ですが・・・執着してる主体がつくられなくなります。これは変化としては意識できないこともあるでしょう。というより意識の範疇で起こらないこともあります。それは自我を解決しないで、その範疇でも起こります。

それは、いわゆる平穏で、これといったことでない幸せ感をもたらせたりもするでしょう。けど。そんな平穏、安楽を求めたり、基準にしたりする必要はありません。なんか束縛の苦しさが解放の楽を求めた、その範囲のことなのかもしれません。

あるいは、たとえば誰か賢者と見なされるイメージを追って、平穏、安楽という見える結果を求めてるだけ、かもしれません。それは自分を知ることの(変な言い方)副作用、そのイメージとしての結果を、努力を省いて先に求めてるということもあり得ます。

続きます。

No.4159 - 2012/09/17(Mon) 10:43:12

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
そのように、副作用、結果だけを求めては、探究ではなくて、単なる稽古事です。自分を知ったら安楽、平穏だ。というのは、イメージです。いや。逆に、平穏、安楽なら、自分を知った、とはならないのです。

あくまで、自分とは何?を解明しなければ、それは対症療法に終わります。それで一生すごせても、それは依然として、平和な、平穏な、安楽な自分・・・がつくられてる・・・どこか見えないところに苦痛を隠し持ってる、わきにどけてる・・・その苦楽の有無は基準になりませんが・・・自我の範疇、ということもあり得ます。

ところで、自我の仕組みですが、それはとても危うい関係です。かなりの無理をして、ほとんど不可能な偏りによって、あっちとこっちに分裂して、やっと仮につくられているだけです。自我の仕組みは、この瞬間、この瞬間に壊滅しているのです。そんな仮の主体、そんなもの、始めからありようがないのです。

ただそれは、その仕組みを、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。それは意味なくそうなのではありません。たとえば否定の道を歩いて、嫉妬の、偽善の、優越感の、劣等感の前提に切り込んで、消していく・・・そんなことができるのは。

なにか思考する、発言する、行動することに隠れた前提がある自我にあってでなくては困難なことです。それは安楽、平穏ではなく、この世界が、意識の範疇にない、ない、から、意識の範疇にない、ある、つまり自己、をつくろうとしてる、ことだと言えます。自我にはその機能があるので、それを働かせないのは、自我はただなくなればいいというのでは、自我を充分に活用してはいません。

続きます。

No.4160 - 2012/09/17(Mon) 10:46:25

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
もし平穏、安楽などの副作用、結果だけを求めるなら、簡単です。1人あるなら、ただ世界を見ればいいのです。どうでしょう。部屋ではカーテンや壁とかで視界は限られますが・・・その色彩に満ちた部屋の空間・・・それが自分ではないでしょうか。その空間と自分、素通しではないでしょうか。その空間は洪水のごとく・・・わが胸に及び・・・です。

さらに窓から世界を見ます。そこ・・・世界と自分、素通しではないでしょうか。これは美しいのです。あるいは鳥の声、虫の音、風の音を聞いてるだけでいいのです。どうでしょう。音は、どこか外からではなく、自分の中心が響いてはいないでしょうか。これは静か、なのです。

ここには自我も、無我も、ひとつも、ふたつも、みっつも、非ふたつも、分離も融合もなく、今も、過去も、未来も、ありません。こういうことは意識をとある特定の、個別のもの、ことに向けないということ、それだけです。とりあえずは世界がそこまでは誰もに準備してくれています。

続きます。

No.4161 - 2012/09/17(Mon) 10:48:56

Re: 世界。続。続。続。 / hato

雨が降ったり止んだりした昨晩から、ゆっくりした時を過ごしました。今日は銀行や、いつもの店に買出し、散歩などしました。とくになにかないときは、殆どふたりで過ごします。

その風景は、もし、仕組みが了解されていないとき、本当には、見ることができないかも知れません。虚構の自我に陥ってるとき、人は、しずかにあることはできないからです。

けれど、この世界。それは人に、あらゆる事象とともに言葉という、不思議の国の杖を与え、闇夜に浮かぶ、真昼の夢を与え続けるかのようです。


初秋の海は、浜松です。

No.4162 - 2012/09/19(Wed) 21:16:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
ところで、自分の事態を定義してみたでしょうか。なんでもいいのですが、優越感。劣等感。依存。葛藤。嫉妬。偽善。善悪。どうでしょう。それをよく見て、できるだけその仕組みの正確な記述をしたとして。

たとえば優越感とは・・・で・・・・で・・・でその自分とは・・・で。それから解放された。とかと定義したとします。では 、なぜそれが、そうなのか、解るでしょうか?知ってるでしょうか?

たとえば、です。まず自分が先立ってあってそれが、思考し、発言し、行動するのではありません。思考し、発言し、行動することによって、その自分が、予め・・・あたかも時間線を遡って・・・あるかのように仮定されます。これが、ここで言う、自我の仕組みです。けど。

なぜこれは、こうなんでしょう。このように開示されたそのこと、その思考。それは見て、話すことができます。それから展開することもできます。

けど、なぜそれがそうなのか?知らないのです。これはなんであれ、知識はなぜ知識?過去はなぜ過去?知覚はなぜ知覚?思考はなぜ思考?葛藤はなぜ葛藤?なぜ楽は楽。なぜ苦は苦?世界はなぜ世界?つまり、なぜ、これは、これ?

これは、まったく知らない、のです。これがこうである必要さえ、どこにも見つからない、のです。どこかで言いましたが、知ってることが何かを知らず,知らないということも何かを知らないのです。

これは、ひとりあって探究する、よく見る。理解する。その必然ではないでしょうか。今日は雨上がりの青空です。庭を歩いて昼間のコオロギの音。風。この見えること、聞こえるということ、思考・・・日常・・・この知らないの、不思議の真ん中です。

続きます。

No.4163 - 2012/09/20(Thu) 11:36:47

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、森羅万象が未知なのです。でないなら、そうだと自覚がなくても誰かが言ったことを基にした思考、あるいは言葉の意味に依存してることを背景にした思考、かもしれません。とあるなにか、たとえば過去とか知識とかは、既知で。たとえば過去や知識がない事態、朝の草原の輝きとか、とあるなにかは未知というように。既知と未知に分けられる可能性があります。

ではなく、ここでは、たとえば・・・自我そのことが未知、怒りそのことが未知、なにかを対象にしないこともすることも未知・・・ありとあらゆること、ありとありえないこと森羅万象が・・・朝も昼も夜も・・・未知です。これは未知を未知と思考しないでも未知。未知を未知と思考しても、思考することも未知。思考とその事態に違いはないのです。

そのようでないならば。ここでなんでもいいのですが、とくに2項対立たとえば、ある、ない。優越感、劣等感。葛藤、解放。善、悪。既知と未知。(その思考とその事態は。それを思考することと、しないことは。事態が違うかも知れません)それをよく見て、できるだけその仕組みを正確に探査、その思考の奥(その自分の奥)を探ると、そこは破綻してないでしょうか?

続きます。

No.4164 - 2012/09/24(Mon) 09:58:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、その思考は、完全にそれとして、個別の特定のこととして、それだけで独立してあるのではないのです。そうです、なにかについての空想。思考の構造、概念は始めから破綻して、見かけ上だけ成立してる、ということです。

あるいはそこに変調・・・とあること《知識や気分や感情や立場》で、とあること《概念》に意味づけて思考する・・・を見つけるかもしれません。 これは事態とその思考が無関係なのに、関係づけてる、ということです。もし関係づけなければ、その思考は正当性を失い、成立は困難です。

この思考の破綻に気がつくということは。その特定の個別の内容に、意識は閉鎖されることはできないということです。思考の構造、概念は密室ではなく、奥に非常階段。そこに日常は収まりきっていないのです。たとえ知識を基にした思考、空想でも、それ自らが、よく見ること、理解すること、それからの拘りに留まらないように導きます。

続きます。

No.4165 - 2012/09/24(Mon) 10:01:20

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
くり返します。たとえば怒りや悲しみが、怒りや悲しみである必要がないのに、怒りや悲しみです。自我が自我である必要がないのに、自我です。喜びが喜びである必要がないのに、喜びです。ここに例外はありません。これは、なぜ、これ?ありとあらゆることが、未知です。既知はあり得ないのです。

これを説明すればですけど。もうそれが束縛せず、それを対象にしてもその仮の主体がつくられないなら、それに依存しなくなったら、それは固有の意味がある必要がなくなる・・・これはそうと思考、自覚しないでもそうなので、そうだという認識は困難です・・・ということです。問題は問題としての意味を失います。

たとえば、なぜ、意識は意識?意識に依存しなくなったら、この疑問が自発的に生じます。ここでも意識は機能してるのです。が・・・ 意識が機能してるのでなくて、どうしてそれに依存しない、ということが可能でしょうか。問題は、特定の個別の意識の内容、なにかに依存してる依存してない、ではありません。

なぜ、怒りは、怒り?なぜ、葛藤は葛藤?知覚は知覚?なぜ、世界は世界?つまり、なぜ、これは、これ?これは疑問で、そして答えのない疑問です。それが、すでに、それからの自由ということを示します。これは超意識とか、なにかの瞑想状態で成立すると言ってるのではありません。ふつうのこの日常がそうだ、ということです。

続きます。

No.4166 - 2012/09/24(Mon) 10:04:01

Re: 世界。続。続。続。 / hato

仕事が終わって、今日はちょっと気に入ってる、安い居酒屋に行きました。ノンちゃんパパはレモンチューハイ、お代わりはお茶割りの焼酎、こちら冷たいカルピスが夏の名残です。店のご主人が持っきてくれた突き出しは、フグのから揚げでした。塩味の効いた熱々が、舌に浸み、とてもいけました。シメサバを頼んでみたら、これも身がきっちり締まっていて、美味しいのです。常連さんか、お仲間で賑わった店内で、頼んだ皿は次々出てきて、さっと頂いて店を出ました。もう、夜気が肌に冷えます。

何年も前に植えられたらしい、白いマンジュシャゲが咲きました。赤いマンジュシャゲは例年通り、庭の西側に咲き揃っており、白いマンジュシャゲは、これから増えていくのかも知れません。

No.4167 - 2012/09/26(Wed) 00:31:59