それで、依存しなくなったら、たとえば見る聞くなどの知覚、意識、世界。そのことを知らない、になります。また、この意味でですが・・・たとえば知識、過去の出来事からの判断など・・・それをあたかも知ってることと見なして、そのことには依存できるという気がするとしても・・・それは、なぜ、それなのか?知らないのであり・・・知らないことには依存できないのです。
そして、どんなことでも、知らない・・・未知・・・です。このように世界は、未知であることにおいて、人を世界に依存しないようにさせしめている・・・導いている、誘っている・・・のです。つまり世界は人を解脱させる機能がある、ということです。
ただそのためには、自分とは何か?が明確でなければ・・・自分はある、にしても、ない、にしても、知らない、にしても。また何にしても、不安定であり・・・その不安定なために自分でそうと気がつかないでも何かに根拠を求め依存してしまい・・・そうと気がつかないでもそこに留まされて・・・つまり世界は正確に機能してるということです・・・それが人の経緯としての課題、解くべき問題になります。どうしても、世界は徹底して、探究せしめ、自己を知らしめ、解脱せしめる機能があるということです。
ここで、もすこし、変調、ということについて復習します。たとえば怒りとは何でしょう。その自分を守ろうとすることでしょうか。威嚇でしょうか。叱咤激励でしょうか。ある意味の愛情表現でしょうか。心配に対抗する打ち消し作用でしょうか。
いろいろ考えられます。ということは、怒りを、それぞれさまざまなその理由で変調して、意味づけているのです。(その意味づけの変遷がその人の経緯を示すこともあります)。では、変調されてない、怒りそのこと、怒りそのもの、とは何でしょう。
もしかして、知らない、のではないでしょうか。では、 自己保存とか、激励とか、愛情表現とか、打ち消し作用とか、は何でしょう。それぞれのことはその構造を見ることはできそうな気がします。でも、なぜそれはそうでなくてはならないのでしょうか。それがそうであるのが、絶対に必然でしょうか。
続きます。
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No.4168 - 2012/09/30(Sun) 09:06:28
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