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記事No.4187に関するスレッドです

解脱 / ダークブルー
こんばんは。

>どれもが、この世界に生きながら、この世界に依存しない。ここ。焦点は、それを伝統的な仏教用語の意味で話してないかもしれませんが、解脱にあります。

7月の名無しさんの「ホームレスでも安楽でいられますか」という問いについて聞かせてください。

>すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。
そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

空想が入り込まない、というのはわかるのですが・・・・・そして、愚問だとは思うのですが・・・それでも「心配だ」という気持ちにならないものなのでしょうか?

病気になったり、経済的な困難があっても「不安にならない」というのは、根本の問題を解決しているから、不安として沸いてこないということですか。

仏教的には、解脱すると苦から離れる、という説明があったように思いますが、この辺りがわかりません。

私は、本当には世界は分離していない、というのを見た経験があります。
もともと世界はひとつだ、という言い方は「分離」が前提で、その考え方からは、この分離のない世界は導き出せないと思いました。

それを見てから一年経ちますが、苦から離れません。
苦とはなんでしょう。
と、思ったのは、最近、ご近所の騒音に苦しんでいるからです(笑)

No.4179 - 2012/10/12(Fri) 20:40:36

Re: 解脱 / ダークブルー
言葉足らずなので補足なのですが、疑問としては、大きくふたつにわかれるように思います。

1.病気になったり経済的な困難があっても「不安にならない」というのは根本の問題を解決しているから。

2.自己と世界の構造として「苦は自分の構成要素」という理解により依存を解決している。

1.であれば苦そのものが沸いてこないですし、2.であれば、苦痛そのものは感じているけれども問題としていないと読めます。

7月の名無しさんも同じように感じられたのではないかと拝察するのですが(違っていたら申し訳ないのですが)、ご夫妻には、苦というものが実感から遠いように感じられ、それが独特な感じを受けていたのです。

No.4180 - 2012/10/13(Sat) 04:45:04

Re: 解脱 / ubik0101
ちょっと用事のため、たぶん明日、hatoさんと一緒に返信します。
No.4181 - 2012/10/13(Sat) 07:34:30

Re: 解脱 / ダークブルー
ご連絡をありがとうございます。
書いてみて冷静にubik0101さんの一連の投稿を拝見しなおして、たいへん失礼なことを書き込んだと反省していたところです。

私には「苦からの離脱」がすべてでした。
なにも知らずに求めもがいているうちに、自分が「解脱」したいのだとわかってきました。
愛や感謝のような方向付けも欲しくない。

ubik0101さんhatoさんは「自己を知ること」だけを言っておられて、自己を知ることにより苦しみが解消できるかどうかは結果論と言われているように読みました。

結果論というか、おそらくは、どうでもいいこと、というふうに読みました。

けれども、どのように「どうでもいいこと」なのか、腑に落ちません。
腑に落ちないだけです。

こうして、苦に足を取られているうちは解脱はできそうにないですね。

No.4182 - 2012/10/13(Sat) 21:22:46

Re: 解脱 / ubik0101
こんにちは。

もしかして、です。ダークブルーさんの言う苦とは、不安とか、心配とか、嫌悪とか、ではないかもしれません。なんでもない普通の日常の意識状態が苦なのではないでしょうか、と思いました。

つまり「本当には世界は分離していない、というのを見た」こと、そんな完全燃焼がとても素敵な体験として印象に残り、それを対象にしてしまってるその自分の普通の有り様が・・・燃焼してはいても煙が出る不完全燃焼・・・なんだか罪悪感を伴って苦なのかもしれません。

ならば、たとえば楽しく歌を歌って苦を忘れてはいてもその底に、ずっと聞こえてはいなかったにしても、通奏低音のように、苦が持続してることに気がつく、といった様子かもしれません。

そうでなくてもですが・・・ubik0101がそうだったことを話すしかないのですが・・・自分に起きたその体験を理解するほかは、解決はないように思います。そこで苦が、理解の、探究の、原動力です。とても強力な原動力です。

たとえば目の前に御馳走が見えてるということは、食べたいけど、食べてないで苦ということがあるでしょう。でも食べて消化されて、自分の血や肉になると、見えることとしては失われます。けど、それが探究して理解するということです。

そしてまた、あの体験にあって。ほかの人が、この体験に繋がる為になることをしたい、という気持が湧き上がってきたなら、それをしないことが、やはり苦と感じられます。

そんな苦にあって、苦を理解したい、ということならば。ここですることは。その自分を見る。という、それだけと言えば、それだけです。 たとえば、苦がなくなってないなら、それをそのまま認めます。

ある意味ですが、苦がなくなる、というのが間違いかも知れません。そして、その自分は、どんな有り様?これを見る。これはその人がすることなので、ここでubik0101の言うことは空想になりますが・・・苦がなくなるという過剰な期待・・・苦の拒否・・・が、苦。あるいはそれが・・・ゴキブリが出たら嫌でも見てしまう・・・苦に惹きつけられる原因かもしれません。

続きます。

No.4183 - 2012/10/14(Sun) 10:06:29

Re: 解脱 / ubik0101
あるいは苦を問う、そんな自分だということが、辛いながらもその自分を感じることができる状態だということもあるかもしれません。ならそれをそのまま認めます。あるいは苦を問題にしてないときには、苦でもなんでもない、苦を手放してる、その自分をそのまま認めます。そして苦についての思考が起これば、その自分との関係を検証します。

この、そのまま認めることが・・・あの体験の有無に関わらず・・・探究の要で、総てです。あとの展開は、探究が探究を導いてくれるので、注意深く見なければなりませんが、努力を要するとかいうことではないです。もしあればブログや、日記などで、書くことで明確になりやすいと思います。それに打ち込んで、書いたら忘れる、読み返す必要はないです。

これはすでに「・・・というのを見た」その見たことを表現、意識化するということでもあります。ここではそれを、自分の意識に教える、と言っています。そこで、たとえば世界は総ての意味を孕んで無意味、透明とか、ここでいう変調とか、思考とその事態とか、触媒とかを理解する、経緯を歩くかもしれません。こんな探究ほど面白いことは、ほかにないです。

いきなり心配とかをなくす道はなく、未開に分け入る楽しみ、精神の冒険、学ぶことがあるということで、世界は親切なのです。それで、たとえば、あの体験を取り戻そうとしなくても、理解することによって、あの体験は対象としては失われ、いわば血や肉になり、世界と分離してない、が常態になります。

続きます。

No.4184 - 2012/10/14(Sun) 10:08:23

Re: 解脱 / ubik0101
そんな日常には、どこを探しても自我とか無我とかもないです。ひとつとか、非ふたつとかも、ないです。それをそのまま認めます。たぶん「本当には世界は分離していない」は、ここで言う、世界は対象にならないこの日常、のことかもしれません。

その日常で、たとえば優劣感とか、劣等感とか、欲望とか、孤独感とか、悔しさとか、感じなくなっています。ほかの誰かが言った、書いた、劣等感、とかの言葉を見て。あーそうだ、そんなのなくなってた。

そいえば、そんなことも忘れてた。どこ行ったんだろう?と軽く驚くような感じです。感じなくなったことにも気がついてないことがあるのです。それは自分がどうだで解決できることだからかもしれません。

それと、ほかの人に対する心配とかが、庭作業するといったほどの意味で、面倒、苦ではないのです。心配は心配で、苦とは思わないだけかもしれませんが、心配をすることが面倒、手間がかかるという理由で心配を避けないです。もしかしてですが、心配とかを避けようとすると、ほかのあれこれにすがって、思考は飛び火して、その関係に巻き込まれ、苦と感じるかも知れません。

そして自分の病気とかだと、対人関係の問題とかだと、いくら心配しても、不安になっても、平然としていても、笑っても治りません。そいうことは効果がなく、病気という事態を治療する、対人関係という事態を修復することでしか、変わりません。

そこで、もし不安でも、心配しても、無意味で、そのことがほかのことに結びつかないのです。 心配したら、心配だけ。といっても強い心配はできないのですが、心配しては問題、ということもないです。なので、心配しても問題ないというのも、ことさらないのです。

続きます。

No.4185 - 2012/10/14(Sun) 10:10:24

Re: 解脱 / ubik0101
いつも言いますが、心配も、不安も、それがなんであるか知らないのです。そいうところが日常です。まあ、超意識なら、心配、不安もありようがなく、 死も問題ではありませんが・・・愛の放射される源、実在に向かって帰る・・・そこを持ち出す必要もありません、日常のことを話しています。

どこから来てどこに行くのか?死んだらどうなる?輪廻?とかの疑問は。なにか自分はとあるもの、ということを。あるいは、この世界、それを知ってるということを前提として、疑問になるのではないでしょうか。けど、自分。ここ、この世界が、どこなのかも知らないのです。

それで、どうでもいいと言うか・・・そこで心配とか不安が、死を考えても感じられない、というところです。こんなことを話してると、でも死ぬのは嫌だなあ、と身体は呟いているのが聞こえます。

ところで騒音も、たとえば聞き耳たてて、うるさい、うるさい、と嫌がってるとか。ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲ではない騒がしさなら、自分が平穏なら済むということではないので、病気のように、その騒がしさそのことを解決しなければ。いくら心理的な思考を探っても、解決しないと思います。

それから・・・失礼、ということはありません。こちらのほうが長文大失礼。ubik0101の言うことは、ただ眼だけが読む感じで、とくに意味を汲みながら読む必要はありません。聞き流せば大丈夫です。そして、くり返しますが、ふつうのなんでもない自分の日常を、そのまま認めることが探究の要で、総てです。

No.4186 - 2012/10/14(Sun) 10:11:47

Re: 解脱 / hato

ダークブルーさん、こんにちは。今日は、祭りも終わったあとの週末。仕事もやっと一段落で、掃除でもしよかな、と思ってます。ご連絡ありがとうございます。

わたしは以前騒音のことで、お隣さんと、大変な時期がありました。数年かけて、自分を見たり、案を練って手紙を書いてみたり、とても腐心しました。そうしてる自分の問題かも知れないと、ダークブルーさんのように耐えながら、とても考えました。それで、結局、その音はおそらく、結構なものだったのですが、とある夜中、それが鳴ったとき、窓を開けて隣人に向かって一瞬、大きな声で叫んだんです。「うるさいよっ」。隣人は慌てて、その音を止めました。それから、その音はしなくなりました。

彼らは怖かったのでしょうか。或いは、世間体を気にしたでしょうか。個別の意味では、それぞれに学びがあるとして。自分にはその時点で、音が気になるその事態を見尽くして尚、できることをしました。

悩むときは、相手のこと、自分のこととして、なにか考えるかも知れません。その上でお互いにとっていい方向を、と思うでしょう。でも叫んだその瞬間は、対処そのものだったのかも知れません。その事態ははいいとも、わるいもないとして、そういう表現があるとして、世界に伝わったのかも知れません。

どうしたって、人はひとつともふたつとも、どうともいえないところ・・・として、なので時に、それぞれの事情でしょう。それは、別にある、とも別にない、とも言えないところの事情です。なにもないことも・・・或いは苦痛にあることも、あるとして・・・そして、生きる上で都度、意識され、対処することが起きることは、それはとてもとても面倒なこととして

ダークブルーさんが言われたように、そのこととして苦にしない・・苦にできない・・・それを、苦から離れる、と言うことができます。たとえば、幻想をむやみに作り出さないことは、その意味での、毒矢がどこから来るかを、詮索できない、こと。詮索してる、まやかしの力は、幻想です。幻想に迷うことは苦であり、それを作り出すのは、幻想の自己であり、そこに喜びを見出して気付くことがないことを、苦といいます。

人生はいつも、安易に楽ちんなどということは、できません。でも、どうしたわけか、だいじょうぶ、です。

さまざな機微があり、それぞれの道なりと思いますが、

きっと、大丈夫です。

No.4187 - 2012/10/14(Sun) 10:21:15

Re: 解脱 / ダークブルー
ご返信をありがとうございます。

>ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲

ubik0101さんは千里眼ですね。
実際にそんなことをいくつも考えました。
少しは心が軽くなったところで、また大音量に一撃されたりして、なんといっても現実はインパクトがあります。

「本当には世界は分離していない」というのは、書きながら自分の内面を探っているときに経験したものです。
あれやこれ、あの人この人、と当たり前に感じている普段の生活がぐにゃりと曲がって、本当には、あれもこれも、あの人もこの人もなかった、なかった、ということが理解されました。
根源的にとか別の世界の話ではなく、この日常の中の存在が「他のもの」でなくなって「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」と思いました。
神や大我のような存在になったということもなく、この自我が、そのままの自分をそういう存在だと認識しました。
あまりにそれが当たり前の世界に、普段自分の見ている分離の世界のほうが幻覚に違いない、とさえ思いました。

そのときは「他人はいない、というのはこういう意味なのか」と思いましたが通常の意識状態に戻ると「経験」の記憶はあるのですが実感は失われて、どうやっても「他人はいない」と思えませんでした。
ただ、自分が自分を認識するように、他の人も自分を自分と認識するなら、私であっても他の人であっても、そこに差異はないと思うようになりました。

けれども「すべては自分」と思う経験があっても、世界はなにも動かない。
そのぶんだけ生きやすくなったとか楽になったということは、ほとんどなくて、騒音ひとつで取り乱します。

以前と違うことがあるとしたら、この世界がなんとも表現できないものになったということです。
もどかしくて困ってしまうのですが、表現しようとして言葉をひとつ選ぶと、それからはみ出して溢れてしまう。
ですから以前ご返信で「どういっても上手く言い得ませんが」と書いていただいたとき、あ、はみ出している、と思って少し嬉しくなってました。

はみ出しまくっている世界だから、苦しくてもいいかと思いました。
自分が苦をいやがっているだけで、苦しいのも十分に「アリ」なのだと、ご返信を見てわかりました。

hatoさん。
騒音に悩まれたエピソードをありがとうございます。

窓を開けて隣人さんに叫ばれたエピソードは、どこか豪快感があっておかしみがありますけど、それに至る経緯やご心情を慮るに涙が出そうです。
同じように悩まれたというお話は励みになります。

人生はいつも楽ちんというわけにはいかない、というのも、本当ですね。
きっと大丈夫だと思いますが、大丈夫でなくなったときは、それが現実になるので案外大丈夫とも聞きます。
言われるとおり幻想が一番怖いのかもしれません。

めげたり他のことに巻き込まれて「自分は何だろうか」という問いに戻っていくのが難しいとき、こちらのサイトに伺います。
いつもお二人の姿勢に触発されます。
感謝です。

No.4188 - 2012/10/15(Mon) 00:06:23

Re: 解脱 / ubik0101&hato

まるで自分が体験してるように、読ませてもらいました。それはもしかして、ここで世界の総活動、縁起と呼んでることかな、と思います。そして人によっては、そのことを、真の自分とすることもあるようです。

「あの人もこの人もなかった、なかった、」とは、特定の個別のこととしては、いない、それは分離がない有り様で、だから「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」。 という意味なのでしょうか。

たしかに素材としては、みんな世界という一緒の絵の具で、ここで言う自己は、それで描かれた、そこから醸しだされる絵。泥沼に咲いた蓮華、という感じです。それは、 この世界でなくあると感じるのは、かなりの苦痛でした。

でも、ふつうの日常、自我も無我も自己も区別がなくなって・・・そのせいか、自己について、ある、ない・・・また様々な意見があっても、それはそれ、と気にならなくなっています。でも、あるないの探究は、知覚と対象について・・などの意味で、とても役に立ちました。。

どんなこととも、自分は言えないので、笑ったり怒ったり思考したりの普通の生活で、問題ないでしょう。また、この現実は、もし自分を知ったら、心理的な騒音も、物理的な騒音もないというのでは・・・それを実現してる人もいるとして・・・ちょっと堅苦しいかなとも思うけど、

それも、それはそれです。

No.4189 - 2012/10/15(Mon) 21:48:34